時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

マニュアルの本質

ここしばらく、仕事でマニュアルを作っていた。


一つの作業について、私以外の人でも問題なく作業できるよう、その手順や基準といったものを記したものだ。

例えば、長くその仕事をやっていて、経験や勘、コツといったもの、そうした一人の人間によって培われてきたノウハウを広く、誰もが共有でき、誰でもできるように簡略化する。そのマニュアルさえあれば、今までやったことがない人、初めての人であってもそれを見ることで滞りなく作業ができてしまう。

これさえあれば、誰でも、だいたい同じレベルのものが出来上がる。

人の異動があっても、問題ない。

 

・・・時に、虚しくなる。


完成したマニュアルを私自身も見ながら作業をやってみると、確かに簡単に、なんの疑問も感慨もなく仕事が完了する。

それは、はじめてやった時の自分の無知さ、困難と焦り、それでもどうにかネットで調べたり自分なりに手順を見つけたり整理したり、そうした試行錯誤を味わうことなく、仕事が完了してしまったから。

つまり、そうした過程全てを超越した先にある「答え」だけを表しているものだからだ。

いや、確かにマニュアルなんてなくても、一度やった作業ならば、自分の中に経験として残っていくから、楽になるのは成長と捉えれば喜ばしいことなんだけど。

 

このマニュアルさえ読めば、基本、誰でも同じことができる。

それは、経験だとかコツだとか、そうしたものが一切必要ない。

それって、本当にいいことなんだろうか。

 

マニュアル以上のことができない。

そうした人間をマニュアル人間というけれど。

確かにマニュアルがあることで、雇われる側にも雇う側にも、その恩恵を受ける客側にもメリットがあることは確か。

しかし、マニュアルがあるということは、それに従う人間は、究極、それは人間じゃなくてもいいってことだ。

マニュアルを作り、効率化を図ることで、作業のスピードを上げる。その完璧にできたマニュアルは、作業効率を上げるだけでなく、誰でもできるようになる。

 

誰でもできるから、替えが効く人間ですらよく、何なら人間でなくてもいい。

だって、あんなに苦労して、その分達成感もあった一連の作業が、時間短縮のためにマニュアル(作業手順書)を作ってしまい、それを見ながらやることで、単調で機械的な作業をしている感覚になってしまったのだから。

人間がやる作業ですら、機械的な作業にしてしまう。何の気持ちも湧いてこず、ただひたすら作業を行うだけ。

こんなことのために、作ったわけじゃない・・・

 

でも、分かっている。

上司がマニュアルを作るように言った、その意図を。

本当は、正規の人間を減らし非正規の人間を増やすために、正規の人がこれまでやっていた仕事内容のマニュアルを私は作っているのだ。

いつでも人を入れ替えられるように。


私たちが、平等で安心、さらに安価なサービスを求め、労働者の作業効率を求めたところ、それが結果的に人の使い捨てを可能にした。

まさかマニュアルを作ることで、人間の人間らしい仕事を奪っているとは思いもしなかった。これは、ちょっとショックだった。


人間が恐れるべきはAIの存在や機械化だけでなく、人間が効率よく作業ができるようになるためのマニュアル、なんてことも・・・