ちょっと前に、別の部署の方と仕事をし昼食を共にしたとき、普段、どんな音楽を聴くのか、という話になり。
答えられない自分が。
まあ、今もずっと追い続けている歌手がいるわけでもなく、割と移り気な方だし、流行りの曲を聞くわけでもないし。(最新の歌は、スーパー併設のパン屋から仕入れる人間。パン屋は流行の最先端。)
それであっても、好きな曲の1曲や2曲はあるし、まあまあ好きな歌手なんかもいる。
でも、言うのが憚られた。
音楽だけでなく、他の好きなものや趣味であっても、今自分が好きなことを素直に人に言えない自分がいる。
ちょっと前に離れている大学時代の友人とも文字でやり取りしてて、初めて好きな食べ物だとか、異性のタイプだとかを伝えあった。
住んでいる県が違うから今では滅多に会えないけど、一応友情は10年は続いているはず。それなのに、好きな食べ物を知らなかった我ら。
互いに興味がないのか、そういう話題が出なかったのか、なんとも不思議な話だが、
こういうやりとりが文字であってもできるようになったことに、私は嬉しくも感じる。
まあ、その程度の好きなものなら言えるわけ。別に隠すようなことじゃない。しかしこれが、好きな歌手、アイドル、漫画、本、その他諸々のことになった時、果たして自分は正直に答えられたか。
自信がない。
それを話すことに、大きな壁を感じる。
もっと、こう。
欲しいものを欲しいと!
好きなものを好きと!
言いたい!
その裏には、いろいろと臆病な自分が隠れている。
中学生までは、好きな本とか。好きな漫画とか。わりとオープンにする方だった。
それがいつの間にか、好きなものを隠すようになったわけは、一体なに?
思い返してみよう。
中学生とか小学生とか。好きな本や漫画を友人に紹介したり、アピールしたりしてた頃の自分の中の情熱と、それ以降の人生で好きになったものへの情熱。その種類は、少し異なる。どう違うのか、と言われると難しいが。
あの頃は、好きをシェアしたかった。でも今の自分は、好きを独占したい。誰かと分かち合いたくない。自分だけが楽しめればそれでいい。
その違いは、、、真正面から見られるかどうか。かしら。
真正面から見ても大丈夫な好きは、誰かとシェアしたいし、したくなる。おいしいご飯とか。一方、真正面から見たら照れる好きは、独り占めしたい愛なのだ。
大学時代は、嵐がすごく好きでしてん、でも、在学中誰かにそれを伝えたことはなかった。学校も卒業して、大分自分の中で熱が収まってきて、もう普通にテレビも追いかけることがなくなった頃には、嵐が好き、と人に素直に言えたものだ。
でも、本当に好きだった大学時代は、きっと誰かに聞かれても、好きだとは言えなかったと思う。せいぜい濁して、ジャニーズが好き、くらいで逃げていたかもしれない。
本当に好きなものって、恥ずかしくて言えない。
だって、私にとって嵐は、真正面から見たら照れる愛だったのだから。なんか震える愛だったのよね。毎時間ソワソワしてた。嵐の出ている番組を、誰かと見ることができなかった。
それは、まあ馬鹿にされるとか、好きなものが人からどんな評価を受けるのかっていう、第三者からの意見が怖かった、というのもある。
思い返してみれば、照れるくらい本当に好きな漫画とかキャラクター、本っていうのは、やっぱり恥ずかしくて言えないや。小中学生の頃は、まだそんな対象に出会えてなかったのかもしれない。
あと、照れるってことで、自分の口から出すこと自体も恥ずかしかったり。
好きな人の名前って、言葉にするのも照れたりするよね。なんか私、めっちゃ乙女なこと言ってるけど、でも、その通りだと思う。
めっちゃ好きな人、物って、それを心の中で楽しむ分にはいいけど、言葉に出すのは照れて無理。好きな人の目が見られないみたいな。
つまり、恥ずかしくて人に言えないよってことが、私にとっての本気なんだ。
なるほど、それが自分にとって本気ってレベルなんだな。
そういうわけだから、本当に好きなもの、欲しいものを口には出せないけれど、でもそのレベルにまで至っているってことは、正真正銘めっちゃ好きってことや。
あくまで自分の中で。
だから、好きなことや好きな芸能人とかを公言したり、そういう内容で情報発信してる人って私からすると、めっちゃすごいというか、照れたりしないのかなって思う。
好きの表現はそれぞれ。
でも、好きなことに対して好きって言えて、それがきっかけで輪が広がるとか、いいよね。
それができないから、自分の中で完結させて、噛み締めるように味わうことで楽しむ。
内側にエネルギーを向けて噛み締めることで愛を表現するってことで、私は内向的な性格してると思うんですわ。