実は難しい、好きなことを好きと伝えること

ちょっと前に、別の部署の方と仕事をし昼食を共にしたとき、普段、どんな音楽を聴くのか、という話になり。

答えられない自分が。

 

まあ、今もずっと追い続けている歌手がいるわけでもなく、割と移り気な方だし、流行りの曲を聞くわけでもないし。(最新の歌は、スーパー併設のパン屋から仕入れる人間。パン屋は流行の最先端。)

それであっても、好きな曲の1曲や2曲はあるし、まあまあ好きな歌手なんかもいる。

でも、言うのが憚られた。

音楽だけでなく、他の好きなものや趣味であっても、今自分が好きなことを素直に人に言えない自分がいる。

 

ちょっと前に離れている大学時代の友人とも文字でやり取りしてて、初めて好きな食べ物だとか、異性のタイプだとかを伝えあった。

住んでいる県が違うから今では滅多に会えないけど、一応友情は10年は続いているはず。それなのに、好きな食べ物を知らなかった我ら。

互いに興味がないのか、そういう話題が出なかったのか、なんとも不思議な話だが、
こういうやりとりが文字であってもできるようになったことに、私は嬉しくも感じる。

 

まあ、その程度の好きなものなら言えるわけ。別に隠すようなことじゃない。しかしこれが、好きな歌手、アイドル、漫画、本、その他諸々のことになった時、果たして自分は正直に答えられたか。

自信がない。

 

それを話すことに、大きな壁を感じる。

 

もっと、こう。

欲しいものを欲しいと!

好きなものを好きと!

言いたい!

 

その裏には、いろいろと臆病な自分が隠れている。

中学生までは、好きな本とか。好きな漫画とか。わりとオープンにする方だった。

それがいつの間にか、好きなものを隠すようになったわけは、一体なに?


思い返してみよう。

中学生とか小学生とか。好きな本や漫画を友人に紹介したり、アピールしたりしてた頃の自分の中の情熱と、それ以降の人生で好きになったものへの情熱。その種類は、少し異なる。どう違うのか、と言われると難しいが。

 

あの頃は、好きをシェアしたかった。でも今の自分は、好きを独占したい。誰かと分かち合いたくない。自分だけが楽しめればそれでいい。

その違いは、、、真正面から見られるかどうか。かしら。

 

真正面から見ても大丈夫な好きは、誰かとシェアしたいし、したくなる。おいしいご飯とか。一方、真正面から見たら照れる好きは、独り占めしたい愛なのだ。

 

大学時代は、嵐がすごく好きでしてん、でも、在学中誰かにそれを伝えたことはなかった。学校も卒業して、大分自分の中で熱が収まってきて、もう普通にテレビも追いかけることがなくなった頃には、嵐が好き、と人に素直に言えたものだ。

でも、本当に好きだった大学時代は、きっと誰かに聞かれても、好きだとは言えなかったと思う。せいぜい濁して、ジャニーズが好き、くらいで逃げていたかもしれない。

 

本当に好きなものって、恥ずかしくて言えない。

だって、私にとって嵐は、真正面から見たら照れる愛だったのだから。なんか震える愛だったのよね。毎時間ソワソワしてた。嵐の出ている番組を、誰かと見ることができなかった。

それは、まあ馬鹿にされるとか、好きなものが人からどんな評価を受けるのかっていう、第三者からの意見が怖かった、というのもある。

 

思い返してみれば、照れるくらい本当に好きな漫画とかキャラクター、本っていうのは、やっぱり恥ずかしくて言えないや。小中学生の頃は、まだそんな対象に出会えてなかったのかもしれない。


あと、照れるってことで、自分の口から出すこと自体も恥ずかしかったり。

好きな人の名前って、言葉にするのも照れたりするよね。なんか私、めっちゃ乙女なこと言ってるけど、でも、その通りだと思う。

めっちゃ好きな人、物って、それを心の中で楽しむ分にはいいけど、言葉に出すのは照れて無理。好きな人の目が見られないみたいな。


つまり、恥ずかしくて人に言えないよってことが、私にとっての本気なんだ。

なるほど、それが自分にとって本気ってレベルなんだな。

そういうわけだから、本当に好きなもの、欲しいものを口には出せないけれど、でもそのレベルにまで至っているってことは、正真正銘めっちゃ好きってことや。

あくまで自分の中で。

 

だから、好きなことや好きな芸能人とかを公言したり、そういう内容で情報発信してる人って私からすると、めっちゃすごいというか、照れたりしないのかなって思う。

好きの表現はそれぞれ。

でも、好きなことに対して好きって言えて、それがきっかけで輪が広がるとか、いいよね。

それができないから、自分の中で完結させて、噛み締めるように味わうことで楽しむ。

内側にエネルギーを向けて噛み締めることで愛を表現するってことで、私は内向的な性格してると思うんですわ。

 

お買い物ができた

頑張って、昨日の悔しさをトライしてきた。

頑張った。褒めてやりたい。

やはり悩んでいる時っていうのは、何事もしっくりこないから、自分でちゃんとケリつけて来られてよかった。

 

というのもさ。

ここ最近、なかなか誰かと外出する機会なんてほぼなくて。

それなのに、別に普段着られるような感じではない、そんなスカートに目を惹かれてしまったのね。

 

いつ着るのか分からないもの。

似たようなものがすでにある。

そんなマイナス面はあれど、やはり見た目に惹かれるものがある。

セール価格なので、安さも評価できる。

なにより諦められる気がしない。忘れられない。

 

結果、購入に至るという。

朝、たったこれだけのことで、ものすごく悩み、気が重いまま仕事場に向かっていた。

もっと他に活用できるもの買えば?

スカートなんて、休日しか履かないし。

そもそも、ロングなスカートはすでに4枚あります。

 

心の葛藤だ。何とかして、諦めさせようとしている心のとある一面がそうささやく。

でも、結局、後の未来に何が活躍するかなんて、正直分からんのよ。

ついでに買ったものが、思わぬ伏兵として活躍してくれることだってあるし。

あれだけ悩んだ末に買ったものが、実は出番が少なかったことも。

だからね、買う前の時点で、その洋服の運命を決めることなんて、到底無理なんだ。

 

基本、こういうものを探す、という計画どおりのものが手に入ったことなんて、ほぼない。

コートとかスーツはともかく、それ以外のものなんて、どれも行き当たりばったり。

こういうの!と力んでみても、思い通りのものがそもそも売っている保証はないし、それしか見えてこないから、あらゆるチャンスを逃しているかもしれない。


心に余裕があるからこそ、気楽な気持ちであたりを見渡せるから、いろんなものが目に飛び込んでくる。大抵、何かを見つける瞬間なんて、そんなもんだ。

だから、そんな買う前から、まだ自分のものでないアイテムの今後のことを考えたって、仕方がない。

買ってから考えればいい。

そう思えたら、わりと気が楽になった。

 

まあ結局、活用の当てがないスカートを、どうしたら私はOKサインを出してくれるか、っていうスタートから始まった思考なので、うん。こんだけ言い訳考えて自分を説得にかかっているんだから、早い話、欲しいってことだよ。

誰かと行ければ、そうした考えを同行者が代弁してくれるんだけど。

あいにく一人でしかないもので、全ての役割を自分がこなさないといけない。

まったく、とんだピエロをやってるよ。

 

でも誰かと行くと、自分のセンスとかをバッサリやられそうで、なんか気が引けるから、やはり買い物は一人でしか行けないのだ。

 

素直に、これいいねって言えないわ。

 

買い物とは、自分と向き合う行為なり

洋服を買うのって大変だ。

誰かと見に行くのも大変だし、一人孤独に見て回るのも大変。

 

洋服を買う行為って、自分を真っ向から見つめないといけない作業だからだと思う。

お店に入っていく度胸、その中から探し出すアンテナ、それを合わせてみる羞恥心、買うか止めるかの判断、そもそも、自分の体型を直視しなければならないという厳しい現実。そして、自分のために買ってもいい、という自分が出す許可。

 

購入することへの見えない罪悪感。決して、自由に欲しいものを買いたい分だけ買える恵まれた収入ではないのだから。

不景気により、真っ先に省かれるのは決まって被服費。同じものも着られるけど、でもある程度更新していかないと、気後れするのもまた事実。消耗されていくのは布だけじゃない。

 

ほら、いろんな部分が浮き彫りに。

それらを自分の中でケリをつけていく作業を、決して長くはない時間の中で、全てやらなければならない。

私は苦手だよ。

 

そもそも、入っていく度胸は、結構大きなハードル。

一人で、しかも誰も入っていないところに行くのって、なかなかすごいことじゃない。

それは、言ってみれば、知らない人にナンパするようなものだ。だから、まあ慣れなんだけど。

今でも、さっと見て出ていくのが、なんか申し訳ない気持ちが数%ある。

そんなドキドキ感の中、自分のアンテナを頼りに見ていくのも。

いざ、いいなと思うものがあっても、サイズが大きすぎないか、というのも悩みだ。

いかんせん、最近の洋服はサイズがデカい。丈も長い。身長150センチそこそこの私にとって、今の大きめブームはそもそも厳しいのだ。

入らないは論外。それはもう、悩むことなく諦める以外の道がないので。

 

合わせてみるのも、なんだかな。

明らかに大きいものを合わせて、自分の体型の恵まれてなさを目の当たりにするのも、わりと傷を抉る。

私、傷つきやすいのだ。だって、期待してるじゃん。ようやく気に入ったものが見つかったのに、それがダメだと分かるガッカリ具合。

それはまるで、選考に落とされた気分だ。フラれたことと同義。気持ちは同じよ。

引きずりはしないけれど、でもやっぱりしばし落ち込む。なにせ、気に入る許容範囲が狭いもので。

これがダメでも、すぐまた見つかるよって心から言えない部分があって、だからこそ、1回1回の出来事で心抉られるんだけど。これは買い物だけじゃなく、恋人でも仕事でも、なんでも。

なんで、またすぐ見つかるって思わないかっていうと、それを探すまでに、結構時間かかってるから。

しかも、結構気に入ったものが見つからない暗黒の時間がこれまでにもあったことを、学習しているから。だからこそ逆に、もうこれでいいや!と妥協に変換することもできるんだけど。

 

こうした習慣や性質が、あらゆる人生においての行動や選択に、結構関わってきたりする。

たかが買い物と思うが、実は結構自分の行動って一貫している。

買い物が慎重な人は、実生活のあらゆる面でも慎重なのだ。


あと、悩むことは、色で迷うとき。

結局決めきれない優柔不断を発揮するし、似たようなものを欲しくなった時の心の葛藤。

欲しい!という欲望に対して、それを見ないフリして通り過ぎてモヤモヤを抱え込んで、意気地なしと自己嫌悪に陥ったり。

もう、ただの買い物がめっちゃストレス。買い物が娯楽じゃない。恋愛も飲み会・食事会も娯楽になりえないタイプって、なんか損だよねぇ。同士たちよ・・・!


買い物に行く度、同じようなことを繰り返すから、通販に逃げる人の気持ちがよく分かる。すごく楽だもの。

でも、個人的に対面で買いたいのは、どこか逃げたくないと意地を張っている部分があるからなのだ。そして、そんな中達成できた時の心の晴れやかさは、何物にも勝る。


その人を見たければ、買い物の仕方を見たらいいと思う。

結婚する前に旅行に行け、って言うでしょ。

旅行が無理なら、せめて買い物に行くべし。

金銭感覚だけでなく、性格?性質的なところが、ものすごく浮き彫りになる。特に、そんなに大きな買い物でないからこそ、そういう時に人柄が出る気がする。何気なく意識しない部分だからこそ、その人の素が垣間見える恐ろしさ。

結構人柄、出てるよね・・・

 

結局、今日は買い物に出かけて気になるのがあったけど、そのまま素通りして帰ってしまった。・・・意気地なし。

 

自分の名前の感覚

自分の名前って、他にはない特別な感覚があるらしい。

だからこそ、生死をさまよっている時なんかには名前で呼びかけるのだと、昔どっかで聞いた。

そう、自分の名前の特別な感覚っていうのは、誰にでも当然あるものなのだ。

他の人の名前と自分の名前、自分の中に生まれる微細な感覚が違うこと、みんな自覚があると思う。自分の名前が好きとか嫌いとか、そういう感情はおいといて。

 

しかしだ。

私は、結構その違う感覚が人よりはありそうな気がするのは気のせいか。

自分の名前と、自分、内在している意識ね、それが、違うもののように思えるし、逆に近すぎてゾワゾワと気持ちの悪い感じにもなる。

こうした感覚が、大なり小なりみんなの中には存在しており、それが自分の名前の特別な感覚だと思っているけど。その感覚がかなり大きい方ではないかと自分では思うんだ。

 

名前そのものが嫌い、今っぽくない、意味が嫌い、そんな理由で自分の名前を嫌っている人も少なくないと思うけど、そういう嫌悪とはまた違った感覚で。いや、確かに好きではないのは事実だけど。

 

だから、自己紹介が苦手。

声が小さい、口下手、そういうのもあるけど、自分の名前を言うのが昔から嫌。

小学生の自己紹介の時ほど、声が大きい子を羨ましく思ったことはない。それくらい、みんなの前で何かをしゃべるって苦手で、しかも内容も考えなくてはいけないし、緊張も半端なかった。

それだけなら単に自己紹介が苦手な子ども、だったのだけど、いつからだろうか。

名前を気にし出したのは。。

 

昔から苦手だったかというと、別にそうでもなく。幼稚園とかそこらの頃は、全然気にしてなかったんだよ。

当然、まだ外の世界なんてものを知らなかった、物心つくまでの幼児時代も、好きとか嫌いなんて感情は持ってなかった。

ただ、小学生の時のクラスで何人も同じ名前の子がいて、その頃からあだ名呼ばれしてたから、自分=名前の紐づけがうまく認識できていない可能性はある。

6歳の頃からあだ名だったし。苗字アレンジのあだ名ね。

だから、自分のことを名前で認識できていなかったりするのかもしれない。今でも名前よりあだ名の方が私らしいと思う。名前を呼ばれても、私じゃないみたい。恥ずかしい。照れる。変な感じ。

だから、今でも極力、フルネームを名乗ることは避けたいし、避けてもいる。

名乗ることがどうも気持ち悪い。

 

まだ大人じゃなかった時代、自分の名前と同じ読みで、でも他人の子の名前を呼ぶことにすら抵抗があったなぁ。なんか気持ちが悪い感じがするのは同じ。自分の名乗りと同じように。

今は、その感覚は大分薄れていって普通に呼べるけど、一体何が原因なのだろうか。

この変化は、むしろなんだろう。

こんなのだから、よくテレビのアイドル、もちろん一般人であっても、にこやかに自己紹介を自然と普通にできてるのを見て、なんでこんなにサラリと流せるんだろうと、ずっと疑問に思ってるわけよ。

それとも、他人から聞いたら、どんなに違和感のある名前だと自覚しつつ名乗っても、普通に聞こえるものなのだろうか?

 

自己紹介を一生しなくて済む世界に生きたい。

それか、別の名前になりたい。

自分の名前以外の名前を名乗るのだったら、きっと楽に名乗れると思うのだが。。。

つまりは、他人の感覚で名乗りたいってことなのか?

そりゃ他人になりたい願望はあるんだけどね。どうやら、自分を他人にしたいらしい。

 

ちがう。

もともと他人のような感覚もあり、でもたまにすごく自分であることを感じるのだ。

いつもはフワフワと、まるで意識せずに生きているのに、ごくたまに、「ものすごく自分の身に起きていること」という感覚が小学生の頃からあったけど、もうよく分からん。感覚を伝えるのって難しい。

 

とりあえず、自分の名前の違和感が強くて、好きとか嫌いを超越したようなものを名前に感じるから、その居心地の悪さが嫌で、極力名乗りたくないなーと思っている日々。

自分の名前に不満があるとすれば、ちょっとありふれた名前ってことかな。

クラスでも最低一人は名前かぶりしてたし、多い時は2、3人。私の名前は、親たちの名前から取られた漢字を宛てがわれたものだけど、昔はそれがちょっと由来としてカッコいいと思っていたけど、他の子の名前の由来を知った時、漢字1つ1つに意味があったりして、なんか羨ましかった。


もっと、変でもいいからありふれてない、自分らしい名前がよかった。人と一緒、これが一番私にとって嫌いなことだから。

20歳くらいまでは、わりと本気で名前を変えたかった。

 

自分の名前を自分だと自然に認識できるようになれば、何かが変わるのかしら。

 

素直になることに、押しつぶされる

書いてることって、別に、誰に向けて出力している言葉ではないんだけど。

素直になることが、とてつもない高いハードルであることを自覚している。

 

自分の心に正直になろうとすると、どうしても目元が滲む。

それはさ、普段、いかにその正直な自分で生きていないかってことよね。

本当の想いに、耳を傾けられていない。

傾けてみても、それをそのまま認められない。表現しない。正反対のことを言う、態度をとる。

そういう生き方が身についてしまったから、いざ、自分の心に真っ向から向き合う、いわば瞑想のような形で静かなる自分との対話をした時や、カウンセリングのような形で、静かな空間の中で自分の思いをいざ言葉に出そうとしたところで、つっかえて、言葉の代わりに涙や苦しみが漏れ出てきてしまう。

 

昔、そういうところで話を聞いてもらう機会があった時に、大泣きしたことがある。

親に対する思いを話した時だった。

私、親のことを別に嫌いだなんて本当は思わないけど、でも、素直になることがずっとできないでいて。昔からそういう傾向のある子どもではあったのだけど。

言えないんだよね。


ちびまる子のお姉ちゃんが、夜の西城秀樹のコンサートに行くために、お母さん(すみれさん)に内緒でチケットを買って、前日に初めて、コンサートに行くことを告げるって話があった。

一緒に行くことになってた親友のよしこさんは、ちゃんとお母さんに告げており、チケットも一緒に買いに行ってくれた。もちろん、送迎もお願いしている。

なのに、お姉ちゃんは前日まで内緒にしてた。

それは、言えば反対されるって分かってたから、どうしても行きたかったお姉ちゃんの駆け引きでもあったのだけれど、それを知ったお母さんは行くことに反対したうえで、「(よしこさんは言えたのに、うちの子は)なんで言えないのよ・・・」と一人落ち込んでいた。

結局、お姉ちゃんはよしこさんと、付き添いのよしこさんのお母さんと共にコンサートに行くのだけど、コンサート会場に着いた途端、雨天で中止。駅に着いた時、お母さんが迎えに来てて、そこで二人は本音を話すことになる。

 

「言えなくてごめんなさい」
「本当はちゃんと言ってほしかった」

 

こうして、二人の間の溝は埋まり、その日が誕生日だったお姉ちゃんは家族にお祝いされる、というお話。

 

これねー、見てて苦しい。

反対されるから言わなかった、そうお姉ちゃんは言ってたけど。

お姉ちゃんはそれが本音かもしれないけど、これがもっと拗れてくると、反対されるとか、そういう理由関係なく、本当は言いたいのに、なぜか言えない、というややこしいことになってしまう。

 

心あたりがあるから。

ご飯や旅行に行くこととか、本当は言いたいのに、それでも言うのに一呼吸おいてしまう。

いつも、同じ家に住んでいるのに顔を合わせることもなく、言葉も交わさない私。

言葉は全て無視。そんな生活を、かれこれ5年以上。これを言うと、驚かれるから基本言わない。私、外でもそんなにおしゃべりな方ではないけど、家だともっと無口になる。昔は単なる内弁慶でとてもシンプルだったのに。

 

ある日、それをベッドで寝ころびながら告げたことがあるんだけれど、その時も「ちゃんと言ってよ」と優しく諭してくるのが、本当は嬉しくて、そのまま顔を伏せて泣いていたことがある。

本当は、全てぶちまけて、大泣きして、本当は好きなことを伝えたいのに、どうしてもできなくて。

私が、もしお姉ちゃんくらいの小学生(随分と大人びているけど)だったなら、「言えなくてごめんなさい」って大泣きして、心開くこともしたいのに。

あーできない。したくない。

別に、素直になりたいわけではないけど、屈してしまった方がはるかに楽になることを知っている。

意地を張り続けることは苦行だし、自分も幸せになれない。

十分に分かっているけど、自分が作り出した壁が高すぎて、とてもじゃないが、できない。

素直になろうとすると、いろんなものに押しつぶされそうな気持ちになる。

 

せめて、自分だけでも素直な思いを認めたいと思って、朝、ノートに思っていることを書くという習慣を始めた。それまでは、思いを認めてやることすらしなかった、セルフネグレクト人間だったから。5年くらい続けてる習慣。

私のふるまう態度は何一つ変わっていないけど、こうして素直なむき出しの思いを綴れ、それをネットに上げられるまでにはなった。別に、誰に伝えたい意図もないんだけど。

少しでも、この面倒な内面をオープンにしたくて。

 

それでも、本当に伝えたい思いを、身近な人に伝えられない。

 

帽子って恥ずかしいよね

日曜日は眼鏡で出かけてきた。

天気が良かったから、まあまあ距離のあるセリアまで歩いて行った。

 

とはいえ、なかなかソワソワする。普段の慣れない自分で外を歩くって、落ち着かない。

これが、よく会っている人ならともかく、そうでもない、むしろ話しかけられる恐れが1ミリもない状況でさえ、ソワソワと落ち着かないのはなぜだろう。当然のことながら道行く人、みんな誰も私の普段のことなんて知らないし、気にも止めないはずなのに。

 

自分がいつもと違うというだけで、どうしてここまでソワソワしてしまうのか。

それは自信のなさなのか、そこから来る不安定な自分のせいなのか。それとも、周りの目が全て自分に向いているのでは?という神経過敏なだけなのか。

小学生の時に、恥ずかしくて眼鏡がかけられなかったあの頃の自分が思い出される。

今は普通になったマスクもそう。髪を切った翌日でさえそう。普段はかないスカートをはいた時だって。

いつもと違うことをしている、それだけで、所在なさげになってしまう不思議。

 

もちろん、それらは自分の中の問題だということも自覚している。

眼鏡はコンタクト紛失時の数日間の強制眼鏡週間で強制的に慣れた。

とはいえ仕方なく眼鏡な時と、あえて眼鏡をかけてきた時って、結構ちがう。何が違うかって? 自分の言い訳にだよ。

コンタクト失くしたから、仕方なく眼鏡なんだーと思える自分の言い訳と、今日はあえて眼鏡をお洒落でかけてみた、という自分のひそかな意図。計画。

心持が違う。

もちろん、そんな自分の胸中なんて関係なく、外から見た他人には結果同じに見えるんだけど。

 

お洒落って、そういう時あるよね。

普段帽子をかぶらない人が、初めて帽子をかぶって外出する時の、あのソワソワ感。

かぶらない人は、帽子をかぶるのを恥ずかしく思うし、かぶり慣れている人は、その恥ずかしさが分からない。

いや、そもそもお洒落自体、あえて狙ってやっているという意味では、恥ずかしいものなんだよ。

だって、よく見られたいからっていう、自分の狙いや欲望をダイレクトに表現したものでしょ。そうした本音というか、ある意味正直な思いを素直に受け入れられる人は、きっと恥ずかしいだなんて思いもしないはずだ。

 

帽子なんて、その最たるものだと思う。

だって、言い訳できないからね。

服なら「なんか適当に着てきた」で通じるけど、帽子なんて「適当にかぶってきた」、わけがない。

夏の日差し避けならともかく、それ以外の帽子なんて、お洒落であえて合わせてきた以外の何物でもない。

逃げ場がない。そう、帽子は言い訳できないアイテムである。

小物って、そういう意味ではお洒落の最たるアイテムで、だからこそ恥ずかしいし、だからこそ、それ一つ加えることで圧倒的お洒落感が増す。


いやあ、私も最初、帽子は結構ソワソワしてた。

あえてお洒落してる奴って思われるの、なんか嫌だったことがあった。お洒落な場所に行くならともかく、近所のスーパーや散歩程度で「もしかして、気合入ってます?」って感じで。

もちろん、風に飛ばされるんじゃないか、という緊張感もあった。

(ちなみに、私は傘が強風で飛ばされるんじゃないか、という恐怖から、雨の日に折り畳み以外の傘がさせません)

 

でも今は慣れてきたから、そこまで気になることも気負うこともなく、普通にかぶって出かけられる。

でも、やはりちょっとお洒落してる感じが抜けないから、そう思えてしまうと、ちょっと照れる。特に新しい帽子は特に。

帽子を恥ずかしいと思ってる人って、いるでしょ。

じいさんばあさんは、よくかぶってるけどね。そういや、子どもが帽子嫌いなのは、なんでだろう。(子どもの頃の思いを覚えてる人、いてます?)

 

だからこそ、帽子デビューは夏か冬を推奨。機能重視だと、自分に言い訳できるから。

言い訳できるところから始めてみるのも手だ。

なんなら、買ってすぐにかぶればいい。実は週末、冬用のキャップを買って、値札ついたままかぶって帰りました。

 

眼鏡に関しても。

もっとも眼鏡のソワソワ感は、子どもの頃に味わい尽くしたから、もう慣れてしまった部分は大きいし、眼鏡はお洒落よりも機能的な部分として、まだ納得できる部分があるから帽子よりはハードルが低い。

さて、帽子にも眼鏡にも、ちょっとずつ慣れてきた自分、実は今年はサングラスを使ってみようかな、という密かな企みがある。

サングラス、なかなかハードルが高そうだけど、挑戦してみたい。そんな30代。

 

後ろ向きな就職活動

みんな、どうしてそんなに前向きなんだろう。

仕事をよりよく探すために、インターンシップに参加する。しかも驚いたことに、7割から8割の3年生が、どこかのインターンシップに参加するという統計データを見た。もちろん、学校によると思うが。

しかもだ、1つや2つでなく、10近くもの企業にインターンに行く学生もいることを知って、私は驚きまくった。

 

そして、皆が一様に口をそろえて言うのが、重要なのは情報と行動力。あとは、仲間。

行動力があるからこそ、いろんな企業に出向いていける。仲間がいれば、情報を共有できる。一人でできる時間には、限りがあるからね。

そして、いろいろ考えるに陥った。

みんなこうして、真剣に就職先を探している。自分の人生を正面から向き合って、自分の足で歩こうとしている。

それに比べて、当時含め、私って・・・そんな風に落ち込む。

 

どうにでもなれ主義というか、今の苦痛から逃れたい、現実逃避する性質が今も昔もあると思っている。

ここで苦痛から逃げられるなら、将来苦労してもどうでもいいや、そんな投げやりの人生観。


どうして、こうなんだろう。

どうして、もっと自分の人生、自分というものを大事にできないのだろう。今も昔も。

そんなことを思いつつ、その日の夕方、眼鏡を受け取りに行ったの。

悩む思いは霧散した。

自分で選んだものを所有する喜びに、心が躍った。

 

つまり、こういう経験の少なさだ。世界の狭さ。

あの頃の自分は、情けないほど小心者で、弱くて、それでいてひねくれていて。

例えば、資格の勉強をしてたけど、申し込みに行く度胸がなくて、結局受けなかったりとかね。初めていく場所、どうしていいか分からなくて、結果、試しもせずに諦めてしまった。

しかも、その臆病な気持ちを自分で認めてたらいいものを、どうせ無駄になるから、もっと上を目指したい、なんて言い訳してさ。カッコ悪いよね。


面接も、行く途中で心が折れて、そのまま行かなかったりね。説明会も同様。

小心者過ぎて、怖くて、勇気がなくて、ドキドキしすぎて身が持たなくて。

そういった臆病な心が、あらゆる経験を積む大きな壁になっており、その経験のなさゆえに、生きる楽しさや自信が身に着かなかった、のではないか?

 

しかも臆病な癖にプライドがあって、弱い自分なんて見せたくないと、決して弱音も吐かなかった。いつも孤独な方に行ってしまい、助けを求めることすらしない。

だから碌な結果にならない。いつも、抱え込みすぎる。自分の中にたまっていく。

 

一人じゃ何もできない子が、一人で仕事を探しに行くなんて無理でしょ。

一人で会場、企業まで行くのなんて、もう大変な冒険よ。私にとっては、海外旅行に行くくらいの心境だった。

帰って来られることが一番の目標だった。決して、合格することが目的ではなかった。

この時点で、求職者として失格でしょ。やる気あんの?いいえ、なかった。

 

もっと外に出て、自分にもできること、つながり、楽しみ、そういった積み重ねがあったのなら、もう少し世の中を違った目で見られたかもしれないし、もっと楽しくなりたい、もっと違うステージへ、そう思えたら、そのための過程だって前向きになれたかもしれない。

楽しさがもっと自分の周りにあれば。

可能性を考えられていたら。

その楽しさを見つけることにすら臆病になっていた自分が、仕事を探しに行くことに対して、前向きになれないのも無理はない。

そんな後ろ向きな自分には自信なんて欠片もないし、アピールすらできない。

 

本来、20代前後の時期って、根拠のない自信に満ち溢れている時期なんだよ。

友達に囲まれ、彼氏彼女がいて、遊んで、一番人生ちょろいと思っている時期じゃん。

そんな時期にどうしてか、臆病で暗くてネガティブで、世の中を反抗的に見ていた自分は、就職活動ができる条件のようなものが明らかに満たされていなかった。

それは、自分の人生を幸せに生きたいという目標が消失していた時期でもあった。

この時点で、負けていることを分かっていた。

勝てる気がしなかったし、そもそも勝負にすらならなかった。

体格で負けていて、スーツを着ている自分が気持ち悪くて、恥ずかしかった。

もう一回言うけど、求職者の正しい精神ではなかった。自分でもそう思うもの。周りから見ても、そうだったに違いない。

 

就職活動において、重要なのはたしかに情報や行動力、周りを頼る力ではあるけれど。

そこに至っていない精神の持ち主は、一体どうすればよかったのだろう。

もっと早く行動していれば、とか、あの時の受け答えを、とか。いろいろ後悔はあるのかもしれないけれど、そんなのは枝葉の問題で、もっと根本的なところが足りていなかったのを当時からも自覚してた。

それなのに、誰にも相談せず、口を噤んで、他人なんて信用できないなんて意地を張ってた自分がただただ恥ずかしい。

でも、そんな当時の自分は、他人に弱さを見せられず、本音を言えず、心閉ざしまくってたから、そんな自分に「もっと人を頼れ」なんてアドバイスをしても、無駄なんだよ。

それが少しずつ好転していくのは、20代の後半なんだよ。20の時では無理だったんだよ。

 

何事もタイミングや、最適の時というものがあるけれど。それは、それを行うのに適した体調だったり、精神だったりがうまく揃うときだと思うのだけど。

 

それにはかなりの個人差があるから厳しい。

人生で一番モテる時期が80歳じゃ、しょうがないんだよ。