昨日、私に起こった小さな、けれども確実な実感の話。
昨日の夜は、夕方の怒り爆発に加えいろいろな不満が湧き出て、大変に苦しい時間を過ごしていた。
いつもなら1時過ぎには就寝するも、寝てしまうとすぐに朝が来てしまう事実が嫌で、2時くらいまで眠らなかった。
明日の出勤が嫌だったためである。
生きたくない、いや、行きたくない。
新しい体制も、他部署での仕事も、とにかくすべてが嫌すぎる。だから行きたくない。
そんな思いにあふれ、涙の夜を過ごしていた。
ちょうど、ご先祖の供養習慣にて、毎日寝る前にお祈りすることをやっていたのだけれど、正直、自分のことで手一杯なのに、どうして死んだ人間のことを思わないといけないのか。そんな本音が飛び出す。確かに先人を思うことは大切だが、自分のことの方が、ずっと深刻だった。
他者を思いやって涙している場合じゃなかった。
そんな当たり前のことに、意識が向かなかった。
死んだ人間も、余裕がないとこちらをサポートしてくれない。当然、私らも余裕がないと、思いを馳せて手を合わせられない。
自分はとにかく、変化に弱かった。
ちょっとした変化に対して、モヤモヤモヤと何かが湧いてきて、まるで平和が壊されるかのような気持ちになる。ちょっとしたことで傷つき、泣いて、怒りを感じてしまう。
正直、変化が起こるたびにこうした思いを持ってしまう自分だから、変化が苦手なのは当然のことなのである。
些細なことで夜泣いて、生きていたくないと嘆き、苦しい苦しいとノートに綴る。
目的もなく、喜びも見出せなくて、苦しい。
こんな思いを毎回味わうなら、そりゃ安定を求めますわ。安定が身を守るのだから。
そんなことを思いつつ、2時を過ぎても眠りたくないと、仕方なく布団に入った時、閃いた。
思っている不安や不満を、まるでそうと悟らせないように正反対のことを口にしたり、そっけなく気にしてないフリしてみたり。心と言動のチグハグが、大きなストレスを生んでいる。
なんとかしたい。
思いと言動を一致させたい。
内心のモヤを隠して平気なフリするの、もういい加減卒業したい。
さんざん苦しみ、重い気分になり。
ならいっそのこと、嫌だと思っていることを口に出してみるのはどうだろう。
「嫌だけど行ってきます」「仕方ないけど行ってきます」
嫌だから、嫌々、しょうがなくやってやりますよ、はぁ。。。そんな内心思っていることを口に出してみたら、また何かが変わるかもしれない。
そんな挑戦にチャレンジしてみるのもいいかもしれない。
たしかに世の中の多くのストレスは、思いと言動、振る舞い、そういったものが一致せずにどんどん乖離してゆくことで生まれる。
一致さえしていれば、それがどんなにネガティブなものでも、とりあえずストレスは感じない。楽にはなると思う。せいぜい、自分に対する評価が下がるくらいだ。
正直、積極的にプラスのことを発言するセルフマインドコントロールな自己啓発なんかより、自分が楽でいられることの方が大事だ。だって、楽になりたくて、幸せになりたくて自己啓発するんでしょーが。スピリチュアルも、なにもかも同じ。
目標、行きつく先は同じはずなのに、こうも手段の方向性が違うとは笑える話。
実際、嫌なことや不満を口に出してもいいんだって思えたら、消えてしまいたい気持ちが一瞬で収縮していった。うそ、めっちゃ楽になった。
正直、たったこれだけで、こんなにも楽になるとは思いもしなかった。
どんな似非プラス思考なんかより、前向きになれた。心が笑った。
よくよく考えたら、言いたいことが言えないのって昔からで、特に不満のようなネガティブなことは決して口に出せなかった。思うことすらも憚られた。そんな思い、持ってはいけないと10代の内は思っていた。
それがいつしか当然のことになり、そのうち好きなことすら、素直に口に出せなくなっていた自分がいた。
正反対のことだけど、どちらも本当の気持ちとは真逆のことを言ってしまう、振る舞いをしてしまうというのは、同じ根っこから来ているものだと知れた。それだけ、本音の部分を人に見せたくない、知られたくないのだ。
この、自分で自分を守ろうとする働きそのものや、ナイーブな自分自身をどうにかしないと、この厄介な癖は治らないだろう。
それをどうにかする手段は、無くもないが、簡単にはできない。時間もお金もかかる。
それならば、まあ手が伸ばせる範囲で何かやってみるのも悪くはない。
よし、不満をちょっと口に出してみるぞ。
皮肉だって言ってやる。
見かけ大人しめだけど、口はそんなに良くないのだ。