時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

協調性のない○○

動物占いというものを知っているか。

猿やトラといった動物に個人を当てはめた占いのことで、随分と前に流行り、数年前に再度流行った占いである。

その再度流行った占いでは、12の動物をさらにカラーで分けた、より詳細な占いになるのだが、そのカラーは形容詞でも表現される。

○○な猿、××なトラ、といった表現があり、その部分には「慈悲深い」「活動的な」「正直な」などが入り、全ての動物キャラクターに異なる形容詞が用意されている。

私は12の動物で言えば「ひつじ」に当てはまるんだけど、その形容詞が「協調性のない」らしい。。つまりは「協調性のないひつじ」が私にあてがわれたキャラクターです。

 

はてはて、この形容詞の意味するところはなんだ?

ちょっと、悪口のようにも聞こえるぞ。

子どもの頃の自分であったならば、協調性がないという形容詞に、大層疑問と疑いの眼差しを向けていただろう。

この自分のどこをどう見たら、そんな言葉が出てくるんだ、と。

それほど、昔は協調性が人一倍あると思っていたからだ。なんせ、チームプレーやグループでの活動が好きだった。体育でも、個人競技よりバスケットボールやポートボールといった、チームプレーの方がお気に入りだった。

誰かがいると安心した。一人での行動なんて、とてもとても。。

 

そんな自分。

ああ、協調性が実はなかったな、と思うことが今なら心当たりがある。

仕事で掃除をする機会があって。でもその日ちょっと機嫌が悪くて(例の、同僚に対するイライラである)誰かと一緒に作業をしたくなかった。

いや、機嫌がよかったとしても、できればそういう作業はつるんでやりたくはない。

一人で黙々と仕事をこなす方がいい。自分一人でこれをやり遂げる、そんな達成感の方が好きだと密かに思った。なんだろう、協力してやる=半人前のような扱いを受けているような気がして。

そんな理由があるのかはともかく、誰かとやるのが、時として恥ずかしく思えることがある。

昔から、わりと誰かと話をしていたり行動していた時ですら、それを楽しんでいる自分がいる一方、誰かとつるんで何かをしている自分をダサいと冷静な自分がいることに気付いていた。

普段はないけど、その思いが強く出てきた場合、今まで楽しそうにしていた自分から急に黙ってしまったり、そっけなくなったり、距離を取ってしまったりする自分がいた。

そう、なんか急に冷静に、恥ずかしく思える瞬間が来るんだよ。醒めるというか、我に返るというか。

もちろん、その胸中の変化は口に出さない。口に出さないから、態度で取ってしまう。そっけなくなったり無口になるのは、そのためだ。

 

だから、その日も4人で行う掃除という作業に対して、みんなでやるのではなくて、一人別室の場所を掃除しに行って、全て自分一人で終わらせてしまった。

こういうところが、協調性のなさだよな、と改めて思った。

ひつじだから、本当は誰かといたいタイプかもしれないし、基本一人で生きていけるほどの強さも度胸も持ち合わせていないのだけれど、どこかで、そんな群れていないとダメな部分を恥じていて、それが強く出てしまうことで、積極的に群れから離れ出てしまう。

そういう心理が人より働いてしまう部分が、私にとっての「協調性のない」が意味する部分なんだと思う。いや、本当はどういう意図があって、そうした形容詞をつけたのかは分からないが。

わりと客観的なところがあって、一人は嫌だけど一人前になりたくて、そこをちゃんと認められたい思いの強いひつじタイプ、というやつなんだろうな。


とはいえね、そんな性質だからこそ、ひつじのキャラクターをあてがわれたことに対して不満もあるわけよ。

つるむことでしか生きられない人間を、子どもの頃からちょっと見下してた。特に女子とかね。特定の友達とばかりつるんでいたり、グループ分けで揉めたり。昔から女子のそういうところが、同じ女子として嫌いだったから。

私がちびまる子の「たまちゃん」なら、まる子と親友でいつも一緒にいるけど、いつも一緒にいると周りから思われたくない気持ちもどこかで持っているのだ。

依存しあっている、そう思われたくないのかもしれない。だからこそ、ひつじの「群れていたい」「寂しがり屋」といったキーワードに、反発したくなる。

たとえ遊びであっても、もっとカッコいいライオンだとか、狼がよかったよ。

そりゃ、実際はライオンも狼も本来は群れをなして生きるけど。なんというか、弱っちいなと思われていること自体、心外。

いやあ、自分がそういう弱さを自覚しているからなんだろうけど。


語感的に一番の憧れは・・・

 

・・・「気どらない黒ひょう」