時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

誰かにとっての正解

こういうとこ、自分の癖というか、なんというか。

 

とあるブログをやっておられる方がいて。

その人は個人でファッションのコンサルタントのような、そんな感じの仕事をやられている方なんだけど。

最近は読んでないけど、5年くらい前に。いろんな色の服を堂々と着こなしている方で。自分というもの、ファッションは自己表現だ、というのが体現されているような方だった。

 

その人にとっての正解というか、その人の方針、主義?に、合わせてしまう自分がいたんだわ、かつて。

ちょうど夏のセールをやってて、普段なら買わないようなカラーの服とか、柄のものを買ってしまった。

ファストファッションかつセールっていうのもあって、つい。つい、背伸びしたくなって。でも結局失敗。

そもそも当時、そんなカラーものを着るような心境じゃなかったし、柄にだって好みがちゃんとあったはずなのに、そういったパーソナルなことを無視してまで、なんで、あんな無茶なことをしてしまったのだろう。

その時買ったものは全て捨てた。

 

なんかねー、自分という芯がなかったと、ひどく後悔したもんだ。

当時はその人のブログをよく読んでいて、いつの間にか、その人にとっての正解に自分を合わせていっていたのね。

まるで先生の顔色をうかがいながら、先生が喜びそうな答えを言う小学生のように。

なんか、すごい優等生ぶりが発揮されているような気がする。

 

会ったことも会うこともないのに、なぜかその人の好みに合わせてしまっていて、きっとどこかで、その人の中の正解に入りたかったんだと思う。

嫌われたくなかったのだと思う。会うこともないのに。

あと、批判されたくない、反論されたくない、否定されたくなかったとも。

安心して、同じ意見として、穏やかに読みたかった。

やはり、直接でないにしろ、自分の主張に向かい風吹かせられたら、あまりいい気分じゃないから。心乱される。そんな心境は好きじゃない。

 

このねー、別にこういったことは、その人限定の話じゃなくて。

つい、目の前の人だとか、書いている人の意見に自分も同意見、同じ正解を持っていると安心する。一方、逆の意見かもって思うとソワソワしてしまう。テレビのコメンテーターの人とか。


特に、なかなか的確なコメントを突く方と、違う意見を持っていた時の、私の動揺。

否定されるのが嫌。

自分の意見と、自分自身は別個のものだと分かっちゃいるけど、なかなか冷静に切り離せない時がある。


今は、そういう後悔があったから、できるだけ自分の好みや意見を尊重したいと思っているけど。

時々、そういう優等生な自分が、誰かの顔をうかがっている。

それこそ、失敗したと思ったら、誰かが注意してくるかもと思って、ものすごくソワソワ、ヤバいって思い始めてしまう。

まるで誰かに監視されてるみたいに。

 

 

めっちゃビクビクしてて、カッコ悪い。こんな自分が自分であることを、自分のプライドが許さないんだけど。

でも、どうしようもない。

まあ、だから、どうこうしようって思いはないんだけど。


自分の中でも、よく分からない。

変わりたいと思って行動しつつも、これまで生きてきた自分としてのプライドもあるでしょ。

こんな自分を変えたい。。。そういう思いもあれば、こんな自分で何が悪いんよ!っていう思いもあって。

世間に合わせなきゃ、という思いと同時に、世間が自分に合わせろよ、という思いも抱く。

 

正直、こういうバランスを保ちながら、メンタルはできていると思う。

変わりたい、そうは思いつつ、でも、変わりくたくはないと主張する。

面倒だから怖いから、というのだけでなく、なんで自分が変わらんとあかんのや。そんな図々しい自分だ。

 

ま、こんなことを毎日ずっと考えているわけでなく、むしろ考えていない時の方が圧倒的に多い。

ただ、壁に当たった時や、うまくいかない時に、こうして複雑に思考を巡らせてしまいがち。

 

ネガティブは複雑なのだ。ポジティブは単純明快。すごくハッキリサッパリしている。

この複雑さを、少しでも解いていけるように、こうして思考の中身を掻き出している。