時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

素直になることに、押しつぶされる

書いてることって、別に、誰に向けて出力している言葉ではないんだけど。

素直になることが、とてつもない高いハードルであることを自覚している。

 

自分の心に正直になろうとすると、どうしても目元が滲む。

それはさ、普段、いかにその正直な自分で生きていないかってことよね。

本当の想いに、耳を傾けられていない。

傾けてみても、それをそのまま認められない。表現しない。正反対のことを言う、態度をとる。

そういう生き方が身についてしまったから、いざ、自分の心に真っ向から向き合う、いわば瞑想のような形で静かなる自分との対話をした時や、カウンセリングのような形で、静かな空間の中で自分の思いをいざ言葉に出そうとしたところで、つっかえて、言葉の代わりに涙や苦しみが漏れ出てきてしまう。

 

昔、そういうところで話を聞いてもらう機会があった時に、大泣きしたことがある。

親に対する思いを話した時だった。

私、親のことを別に嫌いだなんて本当は思わないけど、でも、素直になることがずっとできないでいて。昔からそういう傾向のある子どもではあったのだけど。

言えないんだよね。


ちびまる子のお姉ちゃんが、夜の西城秀樹のコンサートに行くために、お母さん(すみれさん)に内緒でチケットを買って、前日に初めて、コンサートに行くことを告げるって話があった。

一緒に行くことになってた親友のよしこさんは、ちゃんとお母さんに告げており、チケットも一緒に買いに行ってくれた。もちろん、送迎もお願いしている。

なのに、お姉ちゃんは前日まで内緒にしてた。

それは、言えば反対されるって分かってたから、どうしても行きたかったお姉ちゃんの駆け引きでもあったのだけれど、それを知ったお母さんは行くことに反対したうえで、「(よしこさんは言えたのに、うちの子は)なんで言えないのよ・・・」と一人落ち込んでいた。

結局、お姉ちゃんはよしこさんと、付き添いのよしこさんのお母さんと共にコンサートに行くのだけど、コンサート会場に着いた途端、雨天で中止。駅に着いた時、お母さんが迎えに来てて、そこで二人は本音を話すことになる。

 

「言えなくてごめんなさい」
「本当はちゃんと言ってほしかった」

 

こうして、二人の間の溝は埋まり、その日が誕生日だったお姉ちゃんは家族にお祝いされる、というお話。

 

これねー、見てて苦しい。

反対されるから言わなかった、そうお姉ちゃんは言ってたけど。

お姉ちゃんはそれが本音かもしれないけど、これがもっと拗れてくると、反対されるとか、そういう理由関係なく、本当は言いたいのに、なぜか言えない、というややこしいことになってしまう。

 

心あたりがあるから。

ご飯や旅行に行くこととか、本当は言いたいのに、それでも言うのに一呼吸おいてしまう。

いつも、同じ家に住んでいるのに顔を合わせることもなく、言葉も交わさない私。

言葉は全て無視。そんな生活を、かれこれ5年以上。これを言うと、驚かれるから基本言わない。私、外でもそんなにおしゃべりな方ではないけど、家だともっと無口になる。昔は単なる内弁慶でとてもシンプルだったのに。

 

ある日、それをベッドで寝ころびながら告げたことがあるんだけれど、その時も「ちゃんと言ってよ」と優しく諭してくるのが、本当は嬉しくて、そのまま顔を伏せて泣いていたことがある。

本当は、全てぶちまけて、大泣きして、本当は好きなことを伝えたいのに、どうしてもできなくて。

私が、もしお姉ちゃんくらいの小学生(随分と大人びているけど)だったなら、「言えなくてごめんなさい」って大泣きして、心開くこともしたいのに。

あーできない。したくない。

別に、素直になりたいわけではないけど、屈してしまった方がはるかに楽になることを知っている。

意地を張り続けることは苦行だし、自分も幸せになれない。

十分に分かっているけど、自分が作り出した壁が高すぎて、とてもじゃないが、できない。

素直になろうとすると、いろんなものに押しつぶされそうな気持ちになる。

 

せめて、自分だけでも素直な思いを認めたいと思って、朝、ノートに思っていることを書くという習慣を始めた。それまでは、思いを認めてやることすらしなかった、セルフネグレクト人間だったから。5年くらい続けてる習慣。

私のふるまう態度は何一つ変わっていないけど、こうして素直なむき出しの思いを綴れ、それをネットに上げられるまでにはなった。別に、誰に伝えたい意図もないんだけど。

少しでも、この面倒な内面をオープンにしたくて。

 

それでも、本当に伝えたい思いを、身近な人に伝えられない。