今年から、ちょうど行動自粛期間が始まったくらいの頃から、神社に行くようになった。
正直、今まで年始の参拝でしか赴くことのなかった神社。
それも、子どもの頃から家族に連れられて行っていた近所の御贔屓のところのみ。
新年明けたばかりの寒い中、なぜわざわざ行かなければならないのかが分からなかった。大人になったら、そんな習慣はやめようと思うほど、神社という場所に縁がなかった。
行ったら行ったでお賽銭が必要になり、おみくじなんかにお金を使う。全く理解ができないとすら思っていた。
そんな私は、今では月に1回は最低でも参拝するほどに、神社に足繁く通うようになってしまった。
しかも、結構好んでお賽銭までしている。
こんなにも神社好きになってしまったのは、知り合いからの勧めと、単純に他に行くところがなかったせいだ。
家の近所を調べ、こんなところにあるのか!という発見があると、ついそこまで足を運んでみたくなる。
で、いろいろ行ってみると、それぞれ違ってて面白い。
特に、人気のない神社は落ち着く。何より、することがない日の暇つぶしに、ちょっとそこまで足を延ばしてみる場所として、ちょうどよかった。
参拝といっても、大したことをしているわけでもない。
話を聞いてもらう、現状の報告、悩みの告白、ちょっとした目標を告げる、そんな程度だ。
しかし、自分以外の何かに、心の内を告げるというのは、なかなかいいものだ。
自分だけの決意では、揺らいだり尻込みしたりして、なかなか実行に移せない場合でも、神社で決意を約束すると、ちょっとだけ勇気をもらえる。
神社での誓いは、神との誓い。お賽銭で例えば千円ほど寄付すると、「千円で取り交わした約束だ」などと思って、無下にもできない。
(個人的にお賽銭は、有料の決意の約束であり、神社への寄付という位置づけにしている)
今年になって行くようになったのは、これまで行ったことのない、近所の神社だった。
人気がなく、こじんまりとした神社。神主さんが常駐しているわけではないため、落ち着いて参拝できる、隠れスポットのようなところ。
今日行った神社は、そこではない、少しだけ離れたところにある神社。行くのは今日が2度目である。
誕生日に雨の中、初めて参拝した神社だ。
そこは、一つの敷地内にいくつもの神様が奉られている。
とりあえず一番大きなところを参拝。
ここの神社も、なかなかに落ち着く場所だった。私は、神社の静寂が結構気に入っている。
参拝した後、境内をウロウロしていると、ほっそりした背の高い木が目に留まり、そちらにも合掌。随分と細くて貫禄はないが、これが御神木らしい。
その木の前には、鈴緒と小さな賽銭箱が置かれてあった。
枝が二股に分かれており「二股になってるのね」と思い、目を閉じて手を合わせると。
なぜか、泣けてきた。
嬉しいような感激のような、よく分からないけれど、この木が二股になっているのが嬉しくて、涙が滲んでしまった。しばらく、そのまま目を閉じていた。
こんな風に、外で目を閉じて突っ立っていても、なんらおかしくないのが神社の魅力である。
むしろ、そうでない方が間違っている。
私の他に、仕事帰りなのか、制服をきた女性が参拝していたが、私は気にせず目を閉じたまま立っていた。
神社は、外であるにもかかわらず、自分という存在を目を閉じることで感じさせてくれる、現代社会において、ありがたく貴重な存在なのである。
瞑想していると、涙が流れることもある。
きっと、それと同じ原理が働いたのかもしれない。
そういえば、よく訪れている神社でも、泣いたのは参拝のために目を閉じている時ではなく、御神木を見ている時だった。
なぜか、木を見ると泣けるらしい。御神木限定かもしれない。
なんか、嬉しくなるんだよね。
長く生きた木に。
別にパワーを感じるとか、そういうことはないけれど、見ていると嬉しく、愛おしくなってしまう。それが、涙という形で降りてくる。
ちなみに、今日参拝した二股の御神木は、どうやら「縁結び」の御神木だったらしい。
確かに、神社に入ってすぐのところに看板が出ており、そこには「御神水」という表記があった。そのため、何か池のようなものが縁結びとしてあるのかと思い、あたりを探してしまったけれど。
実は単に、看板に書かれていたのは「御神水」ではなく「御神木」。
「木」という字が、筆記体で「水」のように見えていただけだった、というオチ。
確かに、木と水の字は似ている。
ま、その御神木が縁結びだったと知ったのは家に帰ってからだったけど、とりあえず御神木に合掌してきたから、良しとしよう。