とある1日の物語。
平日の休みの日は、いつも大抵同じように過ごす。
いつも通りの時間に家を出て、時間をつぶし、11時前にお気に入りのお店に着いてご飯をいただく。
そこではいつも、サンドイッチを選ぶ。クラブハウスサンド。
ただたまには、違うものを頼んでみたい。贅沢して、飲み物なんかも追加したらどうだろう。
その後は、個室を求めてカラオケボックスに行く。
歌おうが本を読もうが果てしなく悩もうが、何をしたっていい。自由。
ここ数日のことで、悩みもした。
決意もある。
最近の事情で仕事がなくて、でも他のところに行かされるのも嫌。
理由のない、嫌悪感。絶対にやりたくないという、強い意志。
そこで湧いてくる嫌悪感は、きっと私の内部から発している信号なのだ。もう学ぶことは終わったのだと。
事実、これまでは前向きに勉強できていたものが、今ではやる気が起きず。
その時点で、すでに終わったことを意味しているのだと思う。
なら、そこで立ち止まっている理由はないし、まあ、確かに未練はいっぱいあるから、できることなら長く、同じような立場で、出来ることをしてあげたかったけど、それは最初から無理だから。
もう、自分が選択できる道は、1つしかない。
その日の帰り、神社へ寄った。
予報だと昼過ぎから降るはずの雨も降っていない。
時間もあるからと、なんとなく近所の神社へ向かうことにした。
今日もまた、拝殿が開いており、奥にはのこのこやって来た自分の姿が見えた。この神社は、結構な時間、扉を開けているみたいだ。
賽銭箱の隣には、もう一つ小さな賽銭箱があり、古いお札とかお守りとか、お焚き上げ用の専用箱らしい。そこには確かに、矢とかお札のようなものが箱に入れられている。
ずっとそこにあることは認識していたけど、興味を示して近づいたのは今日が初めてだ。
私もお守りを持ってこようと思った。
手を合わせる。
これからのこと、いろいろ不安に思うことを。
考えることが得意で、先のことを考えすぎて、最善の道を見つけようとしすぎて、いつも取り掛かるのが遅くなっては、時間を無駄にする。
それに加え、とても臆病だ。
そんな私は、昔の私のままだ。
小学生の頃、なかなか友達に声をかけられなかった自分。
親に背を押されても、どうしてもそこから動けなかった、あの頃の自分。
私は、大人になっても、その頃の私を私だと思い込んでいる。
そう思えた。
大人としても行動したい。そんな思いで、頭を下げてきた。
帰り道、何を思ったのか、自分の中にある子どもの事を考えた。
どうして、子どものままなのだろう。
子どもの私は、なぜにそんな、自分を主張してくるのだろう。
思い返せば、最近、私は自分という子どもを持った親のような気持ちになっていると、気付いていた。
子どものように振舞い、そんな自分が楽しそうにしていると安心し、彼女が傷つくのを、何より恐れた。
なぜ、そんなにも、私は私の子どもを、いつまでも持ち続けているのだろう。
大人になろうと思う心を、妨げているのは何だろう。何がそんなに、不安なのだろう。
家に帰ったら、聞いてみようと思った。
そして自転車で3分ほどの自宅まで戻っている途中。
「置いてかないよ」
ふとそんな言葉が浮かんで、口に出していた。
そうしたら、じわりと、ああ、涙が滲んできた。
そして何度も、置いてかない、置いていかれると思った?見捨てられると思った?と自分に問いかけてゆくと、涙でいっぱいになった。
私は、自分が大人になることで、小さい頃の、子どもの自分を置いていくと思っていたのだろうか。
悲しかったのかも、いや、きっと寂しかったのか。
だから何度も置いてったりしない、一緒に行こう、そう言ってあげてみた。
これで、安心したのかどうか、そんなことは分からない。
でも、私はきっと、子どもの頃のことを絶対に忘れない。
あの頃好きだったものは、今でもきっと好きだ。嫌いなものは嫌いなままだし、楽しかった思い出は、ずっと残っている。
ピーターパンは、大人になったら子どもの頃のことを忘れると言ったけど、忘れるわけがない。私は、今でも覚えているよ。
だから、子どもの自分を、決して忘れたりはしない。
いつだって覚えてる。置いていったりなんかしない。
その後、家にずっと保管してあった3つのお守りを持って、再び家を出た。
外は雨が降っていた。
これで何かが変わったとか、そういうのではないけれど、少しは自分の不安さとか、
そういうのを分かってあげられたのでは、と思う。
不安はきっと、たくさんある。
でも、少しでもそれを自分で理解してあげられたら、今より強くなった自分がいるような気がして。
家に戻る頃には、雨は止んでいた。