時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

親離れできない大人

子供はいつ、大人になるんだろう。

私は自分が大人である自覚がない。

なぜなら、自分はずっと親にとっての子どもだという認識があるから。
だからこそ苦しくて、親離れをすることが大人への一歩だと思っている。

それはなんというか、親元を離れて生活することであり、そうでもないとも言える。
離れて暮らしていても、子供の意識のままの自称大人なんて、たくさんいることを知っているから。

 

本を読んでいて、
「いつかは子どもをつくって、休日はピクニックにいって・・・」的なことを言っている若い男性の言葉を読んで、私は大人というものの自由さを改めて知った。

変な話だが、大人というのは、そういうもんだよなぁと。

自分の家庭を持てること。

それは、自分の家庭を持ってもいいと、自分で決めることである。

そして、パートナーと共に、子どもを持ってもいいと自分たちで決められること。

そこに、親の許可はいらないのよ。
それが大人なんだと、私は当たり前のことだけど、当たり前のことに気付いちゃったわけよね。

まあ、実際には結婚の許可だとか、いろいろはあるけれど、それはあくまで「挨拶」であって、当人同士の意志はあらかじめ決まっている。

この人と一緒の家庭を持つ。
それを自分で決められる自由が、大人にはあるのである。

 

なんでこんなことに反応したかっていうと、情けないことに、私にはできないなと。

情けないことを承知で言うが、30過ぎてなお、例えば一緒にいたい、家庭を築きたいと思う相手がいたとして、それを決める力が私にはないなと。

それを決めるには、親の許可がいるなと、冷静に思ってしまうのだ。

自分のことを自分で決められない。これが、自分が子どもであることの理由。

就職ひとつ取ってもそう。
親の許可がいる。私、真剣に言ってますよ。
信じられないでしょうけど。

大人になり切れてない人間って、多分いくつになっても、こういう判断を迫られる時に「親の許可」がいると真剣に思っているのです。

親の実際の許可を取るかはともかく、頭のどこかで親がいる。

実際に許可を求めなくても、親が許してくれるかどうか、どこかで考えちゃってるんですよね。いや、それがいけないことかどうかは置いといて。

ただ、自分には、自分一人でこの人と家庭を築いて子どもを持ちたいと思う、その決定権がないなと。

ついでに言うなら、この仕事に就職しようだとか、この町で暮らしていこう、この家に決めようという決定権も残念ながら持ち合わせていないなと。

自分が育った家で今も生きているせいもあるし、性格的に、誰かの許可や後押しがある方が安定するタイプであるせいでもある。

そうやって考えると、家で過ごしたいのに、どこかへ行きたいという矛盾や、県外を出歩きたいと実際に行ってしまうけど、その日の内に帰ってくるのも。

どうにかして大人へと近づきたいけど家に、家族に縛られている、その苦しみなのかもしれない。

 

その場所から物理的に離れるのが一番簡単な方法だと、何かで読んだけど。

大学を出た後、当たり前のように実家に戻ってしまったことが悔やまれる。

でも、当時は戻ることに何の疑問もなかった。
家を出たのは、あくまで学習のためであって、それが終われば戻るものだと思っていたから。
だから、同じ年で就職目的で家を出た子とは、根本的に異なる。

それでも家を出ている間、私はアルバイトも、自分がどこへ行くかも、自分だけで決められ、そして当然のように、そこに親の影はどこにもなかった。自分の意志だけで決められていた。

出戻ってからだ。

いろんな判断基準に、親の影を意識するようになったのは。

もちろん同居している以上、同居人を意識するのは当然。気遣いの1つ。

だから意識すべきことなんだろうけど、いろんな制限をしてしまっていることに気付くのは、随分後になってからだ。

 

やっぱり地元は魔が潜んでいる。

親元で暮らしている以上、どんなに外で経験積んでも、自信を付けてきても、家に入った途端に「子ども」になる。

身をもって体感するね。。