ちょっと前の本になるけど、本を読みました。
『やさしさの精神病理』っていう「やさしさ」について書かれた本だった。
古くからある一般的な「やさしさ」と、新しい意味での「やさしさ」について、精神科医として働く著者が、患者の言う意味不明な「やさしさ」というものが、一般的な意味とどう異なっているのか、説明した内容だった。
新しい意味での「やさしさ」であるから、わりと若い方が使っている表現らしい。
従来のやさしさは、寄りそう、共感する、そのために深く踏み込んでいくやさしさ。
新しいやさしさは、あえて触れずにそっとしておく、踏み込まないで一定の距離を保ったままにしておくこと。
正直、その新しい意味での「やさしさ」というものが、分かるようで分からない。
というのも、この本が書かれたのは1995年。今から25年も前のことだからだ。
その当時の若者があえて言葉として使っていた「やさしさ」というものが、今では言葉でなく、雰囲気というか、空気みたいな感じになってる部分があると思うから。
ケースとして挙げられていたのは、年寄りに席を譲らないのは、年寄り扱いしないという、若者なりのやさしさ。親に心配かけたくないから、悩みを相談しない子供としてのやさしさ、みたいな。
言葉ではっきりと「それはやさしさ!」みたいに書いてあるから違和感もあるけど、
その意味はなんとなく分かる。気遣い、の方がしっくりくるかも。
その当時から、世間では、近くで寄りそうやさしさがうっとおしく、放っていておいてほしい、そんな感覚を持った若者が徐々に増えつつあって、それが今では、大勢の人が、そうなっているようにも思える。
踏み込まない関係を保ちたい。
お互いが傷をなめ合う従来の「やさしさ」から、お互いが傷をつけない「やさしさ」へと変わったと著者は言う。
薄っぺらいというか、表面的だなーと、その当時から25年ほどたったギリ若者の自分は思う。
でも、それも分かるのだ。
本音でばかりは疲れるからね。踏み込んでほしくない時は、そうした繕った笑顔ややさしさでいい、表面的に気持ち良ければそれでいい。
互いに不愉快な思いをしなければ、それで。。
著者は言う。
昔は「やさしい」は良いこととして受け入れられていたのに、いつからか、やさしい=感受性が強い、動揺しやすい、言ってみれば弱いという意味にとらえられるようになってしまったと。
だから、そんな感受性豊かな人に対して涙を見せるのは、そんな人に負担をかけるのでは?という意味でやさしくないし、なんというか。
まあ、だから、人前で涙を見せるのはよくないって思う人がいても、別におかしくないのか。涙って、感情の発散の1つではあるけど、人によっては、弱っている自分を受け入れて!慰めて!という図々しい表現方法にも映るだろうし。
私は、逆に受け入れてくれたと思って、嬉しくなるんだけど。
これはつまり、旧型のやさしさを、私はどこかで求めているってことなのかな。
もちろん、基本はそっとしといてくれ&放っておいてくれの、新型やさしさ人間だけど。 深い相談とかを友人にできないのは、やっぱりそういう、重たい雰囲気にしたくないせいかもしれない。
熱い関係に憧れるけど、負担に思ってほしくない。思われたくない。
とまあ、色々思うところがあって普通におもしろい読み物だった。
25年も前から、こうだったんだなって分かって。そして、今に至ると。
なんというか、結局これらの意味するところって「ウザい」ってことなんだなって。
踏み込まんといてほしい、それってずばり、ウザいってことよね。
おもしろいことに、この著者は、新型やさしさ人間は、自分で決断ができないのだと結論付ける。
自分で決断して、失敗して後悔することを恐れるからだ。後悔は、自分で自分の傷をつけることだから、やさしくない。だから、決断することないまま、問題を先送りにしがち。・・・耳が痛いわ。
昔から優柔不断と言えば私。はっきりとした好みがある時は別だが、大きな挑戦事となれば、決まって決断できなくなる。
選んだとしても、選ばなかった方が気になってしまう。
大きなことでなくても、ただのゲームの分かれ道だったとしてもだ。引き返して両方見て、安心したい。ゲームでさえ、これだものね。
周りも新型のやさしさ人間の場合、自分が勝手に決めることや強制することをやさしくないと考えるから、決断を急かさない。待ってあげるのだ。
そう考えると、引きこもってしまうのを見守ることしかできない親、結婚しない子どもを見守ることしかできない親ってのも、いて当然だということになる。
私がその立場だったとして、恨まれたくないしさ。ほっといてほしいって気持ちも、痛いほど分かるんだから。
それこそ、昔はあーだこーだ言ってた親なんて、結構いただろうけど。丁度、その新しいやさしさ世代が、私の親世代、だいたい50~60くらいなんだと思う。
まあ、実際それは全然、やさしくなんてないんだけど。保身なだけ。
傷つけたくないし、傷つきたくもない、ちょっとぬるま湯な関係なのだ。
それより上の人は、結構お節介でしょ?距離が近いんだよ、距離が。
著者は最後に、そうまでして傷つきたくない「自分」って何さってとこでこの本を終えている。
そこは、ちょっとよく分からなかったけれど、共感した部分としては、とりあえず、一応、そんな言葉を使いたがるってところ。
うん、断定!でなく、クッションを挟んだような曖昧さ、あえてはっきり言い切らないところとか、まさに直接的な物言いを避けることで、保険をかけてるってのは、よく分かる。
今のことすら曖昧にさせたがるから、未来のことなんてなおのことと主張する言い分も、もっともだ。
今さえ楽しければいい、これは私もそう思うところだけど、言ってみればそれは、結論を先送りにして、今、ぬるま湯に浸かってたいってことなんだよね。でも、そんな優柔不断の「やさしい」人間でも、いつかは決断しないといけない時が来る。
私にとっては、それが今なんだけど。。