時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

落ち着かない神社

地元でも有名な神社に行ってきた。

叔母と一緒に。

その神社は、このあたりでは歴史だけは一人前。

私がよく行く、行きつけのささやかな神社とは比べ物にならないくらい、荘厳な雰囲気というか。とにかく規模がでかい。駐車場も広かった。

行ったのは平日の午前中だったけれど、参拝客は私ら以外にもいて、中にはお祓いに来られている方も。

広いとは言え、それでも一介の神社であるから、同じ参拝客と顔を合わすこともチラホラ。母子と思われる女性に、若い男性の家族連れに遭遇。

「あとは、○○さんに頑張ってもらわないと★」と男性が言っていたから、おそらく安産祈願だと思われる。若い夫婦と母親と。仲がよろしいこと。横目で見ていて、ちょっと複雑な気分になった。

 

境内を散策している時、叔母が、知り合いによく神社へ行く人がいて、お守りだとか、色々なことにお金を使い込んでいるって話をし始めた。

その方の兄弟のお子さんが、病気か何かを持っているため、熱心にお祈りしているらしいのだ。

が。

結局、世の中すべてがお金だと、叔母は言う。

お祓いも、それぞれ金額があって、5千円のお祓いと1万円のお祓い。結局、お金をつぎ込んだ方がよくしてくれるらしい。世の中、こんなところまでお金かい、と。

・・・そういう面は否定はしない。

神社だって、そういう人たちからのお金で成り立つもの。

仕方がない部分はあるが、何も、参拝に来ている時に言わなくてもいいじゃないか。

それを言い出したら、ここに来ている意味がなくなってしまうよ。

そんなに嫌なら、別にお祓いやらグッズに手を出さず、好きにお参りし、好きな金額だけ納めればよい。

結局、願いを叶えるも叶えないも、行動し、感じる自分次第なんだから。

 

とはいえ、その神社。

有名なのは分かるし、歴史もあって、多くの人が訪れるのも分かるのだけど。

正直、いくつものオブジェならぬ、石碑やら何やらが、あまりにもごちゃごちゃとひしめき合っているみたいで、ありがたいのだか、なんだかよく分からなくなってくる。

最初の方は、そういったところにひとつずつお賽銭して手も合わせていたが、最後の方にはどうでもよくなってくる程、とにかくいろんなものがひしめいている。

ありったけの玩具を詰め込んでみました、まさにそんな感じ。

にぎやか、いや煩すぎる。一言で言えばこれである。

 

本来さ、神社って、自分と向き合うための施設だと思っているんだけど。

よく言われるのが、手水舎で手やら口を清め参道を通ることで、本来の自分に立ち返る、そして手を合わせて参拝することで、自分の思いにそっと気付く、あるいは決意をする、みたいな?

そこまではっきりとしたイメージは持ってないものの、私にとっての神社もそんな風な位置づけなんだけど。

こうも、色々がごちゃごちゃとしていたら、もう全く落ち着かない。参拝客を楽しませようという気持ちだけは一方的に伝わるが。


それでも一応、一番有名な神様のところで、お賽銭をドーンと躊躇なく放り込んで、お参り。せかっく自転車走らせて来たからね。

しかし叔母がいたからか、あまり長くはそこにいられず。なにより、誰か傍にいると落ち着かない。

神社そのものも、なんか落ち着かないし。

落ち着かないけど、見て回る分にはおもしろかった。

出た時には1時間も経過していたのだから、1時間も時間がつぶせるだけのスポットであることは間違いない。

 

しかしだ。

神社へは、やはり一人で行きたい。

でも、誰かと一緒に行く神社は、楽しい。