時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

眼科から考える医療とのお付き合い

というわけで、コンタクトを求めて週末に眼科に行ってきた。

その日に検査してから取り寄せ注文をイメージしてたんだけど。

結局、まずはレンズを両方とも取り寄せてから、そのレンズを元に度数を検査し、見え方に不満ならまた取り寄せて、という流れに。
もちろん、その前に視力を測ってからでもいいが、二度手間になるとのこと。

また紛失した片方を購入するか、両眼とも新規購入するかも自由。

現在「シード」というメーカーのものを使っているけど、片方なら1万5千円。
両眼とも購入ならキャンペーン価格の1万7千円で購入が可能。

受付の方と話をし、両眼とも新規購入&取り寄せしてから検査で微調整という流れに決めた。

というか、私はすっかり忘れていたけど、ハードの場合1年保証が付いてるんですね。
その間なら無料で交換ができるとのこと。

私は昨年、これを利用して保障期間ギリギリになって、新しいものに交換してもらってたらしい。

すっかり忘れてて、事務の人に言われて気が付いた。でもまったく思い出せないわ。

事務の方は大変サバサバされた女性で一見冷たい対応に見えたけど、こっちが「忘れてた」というバカ発言をしたら、ちょっと親しみが垣間見えた。

メガネとコンタクト

これらがいないと、私はまともに生きていけない

さて、こういう医院を訪れると必ず思うのが、「どこまで回復させるか」ということである。
逆に言えば、どこまで回復すれば問題なく日常が送れるのかということ。

医院側の人間にとっては当然の視点なのかもしれないけど、我々一般人ってのは素人。

つい、治療だったり対処療法だったりを、完璧なまでに追及するというか、

例えば、人の目はこれくらい見えることが基準、みたいな。

そういう基準値があって、それに合わせるよう善処するのが医者、みたいな。
(まあ、これは健康診断の「基準値」のせいだと、半分思ってるけど)

でも実際のところ、人によって求める「視力」というものは違っていて、これだけ見えたら問題なく生活が送れる、という自分基準になる。

とにかく遠くまで見たい場合と、生活が送れればいい(PCメイン、運転など色々あるが)って具合で、処方する度数は当然だけど変わってくる。

これは健康だって同じだ。

完全な病のない身体なんて存在しない。

私の場合、多少の腹痛くらいなら健康体だと判断するけど、これは異常だと判断して診察→場合によっては治療する人もいる。
(これは友人のことだが、腫瘍なら何でも取ってしまう。温存、様子見という概念がない)

私は身体のバランスが悪いから、今も左足裏はたまに痛みを生じるけれど、別に完治させようとは思っていない。

もちろん、これ以上悪くならないよう、ストレッチ等をして柔軟に努めるようにはしてるけど、その左足の痛みそのものにフォーカスして「この痛みを完全に取ってください」などとは言わない。

ヒールやパンプスが一切履けない身体になってしまったけど、普段は歩ける・走れる・旅行にも行けるレベルなので、生活に問題ないと判断しているからだ。

しかし、これが接客業だった場合、生活に問題があるとして治療を進めるかもしれない。

 

どこまでの回復を望むか。
これが医学とのお付き合いの要だなと実感する。

こういう時、自分にとっての基準を持ってるかって大事だなと。

医者に任せきりにしない、自分の身体の主導権は自分が握っていること。

セカンドオピニオンとかもそうだけど、自分の意思を持っていることが本当に重要な時代になったもんです。

今日行った眼科だって提案はしてくれるけど、結局決めるのは患者自身でしかない。

こちらが何も言わないと、向こうも何も言わない。
聞けば答えてくれるけど、聞かなければ何も言ってくれない。

一見冷たいように見えるけど、まあ当然の対応というか。

自立ができてない&「どっちでもいい」と自分の意思を放棄してしまいがちな私にとっては、こういう医院での会話って、結構目を覚まさせてくれるというか。

まあ、医療関係の方ってのは、そういう精神でやってるでしょうからね。

私みたいなタイプにとっては結構ハードルが高かったりするのだけどね。