時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

線が細い

線が細いと言われたことがある。


残念なことに身体が、ではなく、精神面が、という意味で。

とにかく、図太さと対極にいるような、そんな感じに映っているのだろう。

線が細いタイプ。

儚い、ぽきっと折れてしまいそうな、そんなイメージを持たれてるんだろうな。確かに見た目は大人しそうな外観だから。雰囲気も相まって。

自分でも分かっている。

自分以上に、線が細い人なんていないだろう、と思っていた。

それはさすがに言いすぎだが、少なくともクラスの中では一番細く(身体じゃないよ)繊細だった自信と、その自覚がある。

緊張が身体に伝わりやすい。難儀なものだ。

もともとの精神というか、自分という存在が細く薄いからこそ、外からの影響は大きい。
感情という衝撃は、他人から見ればちょっとした刺激も、私にとっては大きいもののような気がする。

自分以外の人の感覚を体験したことがないから、分からないけれど。

だれか、味わってみてほしい。

この私で、一体どういう生き方をしてくれるんだろう。見てみたい。

 

本当言うと、自分が線が細いっていう事実は、認めたくはないんだよね。
自分は弱いですって、言ってるようなものだから。

自分が、実は弱かったなんて、誰しも突きつけられたくないじゃん。ましてや、そんなことを他人の口から言われたくない。

アナタ、弱いでしょって、面と向かって言われて、気分がいい訳ない。

弱い側の人間。

そんな事実、認めたくはないけどね。

小学生の時は、そんな自分を自分だって分かってた。

誰よりしゃべれなくて意見も言えなくて、先生と話すことさえ緊張してしまっていた、それが自分。

あの頃、「勇気」が一番欲しくて、七夕とかで願ってたような。


当時の私は、情けないけどそれが自分だって分かってた。そこが、自分の悪い部分であることも分かっていた。

でも思春期に入って、基本的に何も変わってはいないけど強がることを覚えてしまった。

正直、友達も少なくて大抵の休み時間は一人。教室移動も一人。

そんな感じだったから、自分は一人でも平気、全然さみしくないって嘘でも思ってないと、無理だったんだと思う。

それがいつしか、自分は弱くない、って刷り込むようになってしまったと分析している。

大学生になって、不本意な進学になってしまったことや、いろんな本を読んだことで、
世の中を斜めに見る癖だとか、見下すような部分が自分の中に芽生えてしまったことも、今思えば、という感じだ。

世の中で生きていくうちに、周りを意識していくにつれ、ある意味自然なことかもしれないけれど、弱い自分を隠すようになり、いつしかそれを自分ですら受け入れられないようになっていく。

そんなこんなで弱さを自覚するってことが、ものすごく難しくなってしまった。

昔は、誰よりも弱いことが自分らしさだったと分かっていたのに。

意地のような、プライドのようなものが積みあがっていって弱さを認められない、でも本性は誰より線の細い、非常に厄介な大人になってしまった。こういう大人に、なりたかったわけじゃないんだけど。

 

なんか、自分の中に監督がいて。

この監督が納得するような自分ならOK。納得しないような自分ならダメ、そんな感じがあって。

この監督が、マイペースで気ままな自分をOKとしていたなら、それができている自分は自分として誇らしいから好き。

一方、虐げられる自分や利用される自分、弱小な自分をダメだと判断されたら、そんな自分を許せなくて、でも自分を嫌いになることはできないから、そういうシチュエーションそのものを、なかったことにする。

監督ってのは、客観的な自分の視点のことなんだけど。

弱い自分は、なんか許せないし受け入れがたい。

でも、弱い自分こそが本当の自分だったり、する。