人が丸くなる理由(ひとはなぜ「認められたい」のか①)

趣味は結構、いろいろ持っている方だと思う。

鞄作ったり、棚にニスを塗ったり。紙バンドでカゴを作ったり。

あと、運動も。週に2回だけど、一応ウォーキングやジョギング。

たまに本も借りてきて読む。読んだら、たまに感想を書く。

することなければ、動画を見てるしゲームするし、やりたいゲームを求めてさまようこともある。たまには気分転換にカラオケにも行くし。

結構、というか十分すぎるくらいやってる。

ま、あえて挙げるとしたら、どれもこれも、一人でできることってくらい。

だからなのかな。

共有できないから、なんか孤独なのかな。

やっていることは満足、一人で一人の時間を過ごす贅沢は確実にあるけど。でもやはり、それだけでは満足できない部分って、きっとある。

共有はしなくてもいいけど、誰かと言葉を交わしたい。

自分の思いを発言して、時には誰かの言葉を聞きたい。そう思うことは、不自然じゃない。

満足はしてるけど、でも満足できないのは、一人でずっとやってきて、でもどこかで認めてほしい欲求もあるからだ。

ということで、この承認してほしいという心理について。『ひとはなぜ「認められたい」のか』。

 

人には必ず、不安というものがつきまとう。

自分は今どう見られているのか、今のは場に合った発言だったか、この集団に溶け込めているのか。

時に互いを監視し合い、そこからはみ出る者を徹底的に排除するのは、今のご時世にも当てはまるのでないだろうか。

子どものいじめ問題から始まり、集団生活というのは、必ずといっていいほど、こうした他者の視線が存在する。

 

今は自由の時代。

どんな仕事に就こうが、どんな生活をしてようが、何を着ても食べても自由。

他者によって制限されることなど、あってはならない。

しかし、一見自由なはずの我々の生活も、気付けばなんか息苦しい。

自由と言えど、まっとうな仕事に就いてないと、いろんな制度ではねられるし、自由な癖に、未婚や子なしだと、なんか引け目を感じる。

時には周りに気を遣い、へんな同調までして、互いを監視。

おかしい、自由を勝ち得た我々は、どうして息苦しさを未だに持ち続けているのだろう。

というところから、この本は始まります。

 

現代の息苦しさというのは簡単に言えば、これまでは「こう!」というその社会の価値観があって、それに従っていれば、とりあえずよかった時代。そこから解放された今。

自由だから、全体的な基準や価値観が曖昧になり、だからこそ、自分は周りから外れてないだろうか、どう見られているんだろうと、不安に陥ってしまうらしく。

結果、他人に同調ばかりし、自分の言葉を飲み込む。

同調圧力なんて、ここ最近ずっと言われてることだ。

それもこれも、そこにあるのはただ一つ。「不安」。

そんな不安や他人の目を過剰に気にして生きている時点で、自由とは程遠い。

やりたいことより、嫌われない生き方、変に浮かない生き方という、制限を生きているのだから。

 

そもそも、自由な生き方というのは、自分のやりたいこと、強いては自分の本当の気持ちに沿うような生き方のことをいうのであって。

自分の気持ちややりたいことが、そもそも分かってないと意味ないよねーっていう。

この手の不安というのは幼少期、存在を無条件で認められなかったことに起因するらしく。

そこから始まり、思春期、青年期と。

成長の過程で、自分の気持ちに共感してくれる人間の有無によって、変わってくるのだという。

私はさ、幼少期は、まあ姉でもあるから、多少の我慢事くらいはあったと思うし、性格的に随分大人しくて、他人からしてみれば扱いやすい幼児だったと思うけど。

でも、家ではそこまでではなかったから、きっと外では不安がいっぱいだったのだろう。

誰かと争うこととか、自分の意見を主張することが、単純に怖かったのだと思う。

おかげで、小さい頃は、結構人に好かれてたのよ。

こうすれば、自分は安泰の地にいられると学習したんでしょうね。

 

しかし、特に中学時代に、クラスで死んでたのは問題だったなーと思うわけで。

ま、友達がいなくてですね。孤独を強がるために、周りの同級生を見下し始めるのですよ。

すると、どんどん顔も姿勢も歪んでいってですね。

20前後の時期は、相当なひねくれ者になっておりました。

そして今、頑固で、意見を曲げなくて、変にプライドと自意識の高い人間が、ここに。

本来、ここになるまでに、互いに認め合ったり、共感しあったり、まあ、悩みや喜び、時に苦しみを共有できるダチやがいれば、ここまで極端なことにはならないはずなのね。

普通の学校生活を送っていれば。

しかし、いじめや孤立、大人の裏切りや失望など、不安な気持ちが増幅される一方だと、たとえその時はうまく逃れられたとしても、後々影響は出てくると思う。

だから、人の心の発達として、若い内は自分だけのルールや常識を育てるため、そんな風に突っ張ったり、プライドが高かったり、他者の意見を認められなくても、そんな状態で突っ張ることに、限界を感じていくんですね。

今のままでは、誰からも認められないんですから。

自分が精一杯、自分の味方をしてみても、そこには誰もいない。

だからこそ、そんな状態は終わりを迎えるように、他者の意見を受け入れられるようになったり、冷静に自分を見られるようになる。

 

今は、他人の意見なんてサッと放り投げ、めちゃくちゃに意地を張りまくっている私も、そんな自分の虚しさに気が付いて、打ちのめされて、周りを認められるようになるのかもしれない。

実際、つっぱり続けて、挙句感情爆発な私に同僚は「私も若い時、そんな感じだった」と慰められたことがある。

そんなもんだよね。

突っぱねて、意地はって。でも、その先には何もないことにさっさと気が付いて修正かけられるようになれば、それこそ、年とって丸くなるんだと思う。

そんな、一見当たり前のように思われている人間の発達についてを書かれた本でした。

 

~つづく~