時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

刺さったままの言葉

覚えていなくても、きっと刺さりっぱなしの言葉は、あるんだと思う。

 

一番に思い当たるのが、大学生の時の記憶で。

OBの方に取材をお願いしようとして連絡させてもらったメールに対して、厳しい言葉をもらった時のこと。


締め切りのことを書いていなかったとはいえ、普通、お願いの打診のメールに対して、
半年も1年も先の話ですよ、なんてことはないでしょう?

 

それを、ちょっと締め切りのことを書いてないだけで、
「社会人として通用しませんよ」なんて、そっちの方が常識枠から外れてませんかね?と思う。なんという、上からの優越感。

 

一応、私も多少は社会人として生きている今でも、そう思う。

まあ、多少の行き違いがあったには、あったんだけど。

 

とにかく、その言われた言葉をシャットアウトしたくて、風呂に入って、独り言を言ってみて。

自分という存在に、厳しい言葉を浴びせられたことを信じたくなくて、無理やり衝撃を逃がした。


なんかね、自分は完璧な存在だなんてのは思わないけど、でもどこか余裕ある自分でいたいわけ。

不完全だけど、不完全なりにまとまっている平時の自分を、自分として認識していたいというか。

 

そこに傷をつけられたこと、傷ついたことなんて、あってはならないことで。

だから、傷を認識したくない。


傷つけられて傷ついた自分なんて、見たくないって思って。

だからこそ、衝撃をうまいことかわすのだけど。

 

とはいえ、逃がすのも大事なことは分かる。

いつもいつも、衝撃を真正面から受け止めていては、身が持たないし、それを賢いやり方だとは思わない。

 

特に、衝撃を人一倍大きく感じやすいタイプの人間は、その衝撃をまともに食らったら、それこそショック死するんじゃないかって。

だからこそ、その衝撃をうまくかわしたり、逃がしたり小さくすることは、自分を守るために必要なことなのだ。

 

関係ないけど、中学生の時、逆立ちに失敗して、頭から落ちたことがある。

周りの子らは心配してくれていたし、冷やしたタオルを持ってくる先輩もいたけれど、正直、痛みはまるでなかった。

 

ただ、世界がひっくり返っただけ。逆立ちしようとしていたからね。

頭から落ちて、まるで痛みを感じなかった。

あるいは、痛みを逃がしていたのかもしれないし、意識が一瞬だけどこかにワープしていたのかもしれない。


他にも、明らかに痛いはずの出来事なのに、痛みが全くなかったことがある。

それは、私の身体が、痛みを、衝撃を逃がしているんだと思う。

 

それと同じように、心に来る衝撃も、逃がせるんだと思う。

それが意識的なものなら、あえて楽しいことを考える、へらへら笑う、などがあるんだろう。

確かに、その場で崩れこんでしまうよりは、そうやって逃してみるのも一つの手段だと思う。

 

だけれど、それでもどこかで、一度はその衝撃を受け止めていないと。

もう10年経ったのに、未だに傷を直視できない自分がいるわけで。

 

それが癖になっていると、衝撃そのものを避けようと、新しいことだとか、やりたいことに挑戦する気持ちすら、無かったことにしようとする。

だって、やりたいことを見つけてしまったら、やらないとダメだし。

でも、衝撃に翻弄される自分は嫌だから、やっぱりチャレンジやめようって、諦めてしまう。

 

当時だって、臆病というか、勇気がなさすぎて新しいことや人と関わっていくのが苦手で、こんな自分で20年近く生きてきて、そろそろ乗り越えようと一歩踏み出した大冒険の末に、抱えきれないくらいの傷をもらってしまったのだから。

 

しかも、今でもその傷を持ったままという。

そういうことがあれば、同じ経験は避けようと思うのが、学習能力をもった生き物の性ってもんだ。

 

私としては、さっさとそんな記憶を忘れてしまいたいのだけれど、無意識のところで、絶対こういう経験は二度とするまいと、ずっとその一例を記憶に留めようとするんだろう。

忘れてしまったら、また同じことを繰り返すだろうって。

 

もういい加減、手放してくれてもいいのに。

 

人間の記憶も、データベースのようなものなら、そういう経験や記憶を残しておくことで、今現在の出来事と照らし合わせて、事前に危機察知を試みようとする。

 

こういう、忘れられないような記憶や言葉っていうのは、どうしたらいいのだろうか。

 

私としては、そういう記憶を、笑って普通に話せるようになれば、とりあえず、傷がかさぶたになって、後はもう大丈夫なような気がするのだけれど。

もちろん、その過程には、自分であの頃を振り返り、いろいろな感情と向き合うしかない。

 

どうしても、このふり返り、傷そのものを直視することが、どうしても抵抗があって、出来ないでいる。


すごい壁なのよね。こうやって、冷静になって、文字として書き出すことはギリギリできるんだけど。

 

あ、だから、こうして文章で書いているのです。

書けば、自分の中の傷に、少しでも光を当てられるんじゃないかって思っているから。