時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

監視されて、怒られる恐怖に今も

今までも、もちろん分かってはいたけれど、それが思い浮かぶたび、速攻で記憶の彼方に消していた事実。

 

できなかったことを、怒られるのが怖い。

 

失敗やミスを、ではなく。
出来なかったこと、やらなかったことに対して。

 

見張られていると思い込んでいる。完璧な被害妄想。

その場にいる誰か上司が自分を見張っていて、私ができなかったことに対して、厳しく注意してくるような、妄想。

 

実際、他の誰も自分を見ていなかったとしても、見られているような気がする。

そう思ってしまっているという事実。

だから今日も、出来なかったことに対して、実際に見られているし、やばいって思った。

その後も、ソワソワしっぱなし。

怖い。

 

これはさ、昔の職場で、近くの席の嫌な奴に目をつけられて、常に監視されているような恐怖に身も心も緊張しまくっていた過去から来るものだと分かっている。

一度、それで不快な思い以上に恐怖を感じてしまったから、同じことを二度と繰り返したくないと思ってしまって。

いつもビクビク、ハラハラしてしまう。

 

恐怖が出発点になり、そこからの行動になる。

これって、主人と奴隷の関係、あるいは、動物の調教と同じでしょ。

恐怖を植え付けて、それで支配・服従させるような。

 

そこまでえげつないことはないけれども、それでも、自分がそう感じてしまった以上、私の中では同じことだ。

こういう過去の恐怖経験からくる学習能力のせいで、今も苦しんでいるというのは、前から分かっていたけど。

 

それでも、あえてさっさとそこから意識をそらしていたのは。

 

認めたくなかったからだ。

その過去に、その嫌な奴に今も囚われているという事実を。

そこで傷ついた自分を、頑なに拒んでいる。


一種のトラウマだよ。

今日も、同じようなことになって、その時も「やばい」ってなって、恐怖を感じた。

しかし、すぐに意識をそらした。仕事中だったし。

 

そこにずっと意識を囚われると、自分の芯の部分が、骨が抜かれたように駄目になってしまいそうだった。

恥ずかしすぎて、自分という自我を保てなくなりそうだった。

気丈にふるまうことで、なんとか自我とプライドを保てる気がする。


恥ずかしさでへにゃへにゃになった自我なんて、私は許せない。

 

今日は、他にもムッと来るような出来事があって。

でも、いいこともあって。

大変にごちゃごちゃした気持ちを引きずっていたから、帰宅してから夜道を歩いた。

 

歩くと、あらゆる思考はさらに加速する。

でも、職場や部屋に一人でいる時よりも、素直な気持ちを思考することに、少しだけ許可が出せる気がする。

 

それまでは平気なフリしていたり、気丈にふるまっていたりして、何でもないことだと虚勢張っていた。じゃないと、本心を見てしまったら、敗北感や屈辱感を味わうことになるって分かっているから。

 

でも、夜に歩くことで少しだけ正直になってみたら。

そこには、苛立ちや、さみしさや、恥ずかしさや、あらゆる感情が少しだけ見えてきて。

 

敗北感や屈辱感に浸るというか、そんな可哀そうな自分を、夜道だとなんか、少し許せる。あまり惨めな感じを感じない。


そうやって歩いてみて初めて、あの時の恐怖感が今の私を支配しているなって、実感できたのだ。

屈辱的だし、思い出したくもないけれど、そういう事実がずっと残ってるなって。

 

同じような状況になると、きっとあの頃の自分が出てきてしまうのだ。