時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

無職を語る④

前回のつづき。

無職を語る③ - 引きこもる思考

ついでに言うと、この無職の期間というのは、自分の否定ですらあったように思う。

無職になって、一度だけ面接を受けた。実らなかったけれど、本に関するバイトだった。

ダメだったことを知って、好きだった本、漫画などの書籍を一気に捨てた。

悔しいとか、悲しいとか、そういう気持ちを素直に自分の中に落としきれなかった代わりに、本を嫌いになりたかった。捨てることで、全てを否定し、それを周りに見せつけたかった。本が好きだった自分すらも、否定したかった。

 

本なんて読むだけ無駄。他人が書いたもの、他人の経験や知識を読んでも、それは自分のものにならない。

自分の経験の足しにはならない。いくら読んでも、自分の経験にはカウントされない。

だから全て無駄と決めつけ、徹底的に排除した。やめた趣味もあった。

しかし今、本を読むことは以前に比べても多い。

やめた趣味を、また再開することもある。

 

否定し、捨てたことが無職期間であるならば、拾う今は再生の時なのか。

退職など、初めてまとまった時間ができた時に、自分の持ち物を見直して捨てる人は多いと聞く。

私も、無職になって初めて手持ちの物を捨てた。

子どもの頃の衣類、作品、学校で使った道具、不要なプリント、教科書、ノート。

それまで、そういった過去のものは捨ててはいけないと、いや、捨てるという選択肢すら自分の中にはなかった。

それを、ほぼ全部捨てた。

 

過去との別れだ。

ある意味、無職とは、これまでの自分を一度捨てて、新たに作り上げるための畑づくり。耕す期間でもあったと思う。

否定することで捨て、ガランとなった空間で、また一から何かを見つけるために。

捨てたことで、見つかったもの。

それは、これまでの生き方が、よくなかったということだ。

例えば、傷つくような体験をした時、その傷を見ないように、感じないように強がって、無理やり気持ちを切り替えること。

嫌なことを全て飲み込んで、出てこないように固めること。

自分の気持ちを知られるのが怖くて、嫌なことがあってもおどけたキャラを演じていたこと。

今にして思えば、自分の生き方は全てがいっぱいいっぱいで、ものすごく頑なだった。身動きのできない小さな宇宙服を着て生きていたような窮屈さだ。

 

家以外では、身体を大きく自由に動かすことも、伸ばすこともできない。

いつも縮こまっていて力が入りまくっていた。

身も心もガチガチで、もし無職を経験しなければ今もその感覚のままに生きていたかもしれない。

それが幸せだったのか、どうだったのかは分からないが、きっと今とは考え方も物事との向き合い方も違ってたにちがいない。

そう考えると、無職を経験したことがよかったのか悪かったのか、簡単には言い表せない。おかげで方向転換できた部分も少なからず、ある。

 

しかし、一つ言えることは、やはり3年間は長すぎた。

じゃあ、どうすれば3年をもっと短くできたのか。

それは終わりを誰かが持ってくること。

自分からは無理だった。

たとえ、もっと早くに誰かが終わりを持ってきても、私がそれに納得するまで、やはり結果的に3年かかった。

 

本当は、もっと早くに終わりはやってきた。でも、私はそれを始められなかった。
始めようと思ったけど、それは強制的に途切れた。向こうからブチっと切られた。面接に落ちたからね。

だから、終わらせることはできなくて、再び長い期間、眠ることになった。

正直、自分から何かを見つけるとか、始めることは私には無理なことだった。

それは今も、変わっていないと思う。

特に、これがしたいという目的がなければ、そう簡単に自分から何かを見つけに行くことなんて、できないと思っている。それが特に、職業、仕事に関することは特に。

 

目的はないけど動く、そんな、行き当たりばったりな生き方なんて、できそうもない。

親とか周りの人間は、もっと気軽に始めたらいいと言っていたけれど、それができれば苦労しない。

そんな気軽に始めるなんて、信じられないことだ。

そんな、そんな単純なことじゃない。

気軽に人を雇ったり、お金を稼いだり、人と付き合ったり、そんなことはあってはならない。

もっと真剣になるべきだ。見通しを立ててから、人は行動するべきなんだ。

今も実は、そう思っている。

もうこれは、私の信念なんだと思う。

こんな自分だからこそ、なんとなくな気持ちで社会に戻って働くなんて、ありえなかった。

やめた自分が言えることではないけど、社会人としての責任というものがあると思う。

その責任を負うだけの気持ち、内面が整ってからじゃないと。

 

そうやって言い訳して、なかなか出てこられなかったのだけれど。

3年がたって、ようやく終わりを受け入れた。

 

これまた、誰かが新たな情報を持ってきてくれたのだけれど。

それを受け入れてやると決めると、今まで落ち着いたと思っていた内面が、また再び荒れだした。やはり、引きこもっていただけでは、人は成長しないなと思った。

 

それでも、今まで止めていたものが一気に外れると、動き出した流れを止めることはできず、そのまま身を任せ、一応大人としての責任をもって対応したら、あっという間。

非正規ではあるけれど、一応、社会人としての社会復帰。

これで、私の無職は終わったのだけれど、それでも無職を味わったという記憶と経歴はなくならないし、それをどこか恥じている、隠したい気持ちもある。

人から聞かれれば正直に答えるけれど、それでもいい気分はしない。

 

だから、そんな経験を肯定するために、こうして吐き出している。

ふり返って表現することで、過去に光を当てたかった。せめて、自分の経験してきたことに対して、自分くらいは肯定的でありたい。

 

いいことも悪いこともあった。

それがどんな結果につながっているかは分からないし、検証しようもないけれど、通ってきた道があって今につながっているなら、今を幸せに生きることが、過去の真の肯定なんじゃないか、と思う。