時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

「知らない」こと

自分は、まだまだ全然の無知で、社会経験も浅い。

分からないことだらけなのが、悔しいし、悲しい。

 

当たり前のことだけど、世の中で知っていることなんて一握り。

やったことがなければ、知らなくて当たり前。

でも、知らなくて当然だと分かっていても、それを実感した時、いい気持ちではないよね。

 

特に、仕事に関して劣等感を持っている。

ちゃんと就職せずに、おまけに引きこもりときたもんだ。

 

社会と隔絶すらしていたし、今も、できれば積極的に関わろうとはしていない。

だからこそ、そうしたことが原因の経験の浅さとか無知さとかが、すごく堪えるのだ。

情けない、とすら思う。

 

別に、もっと基本的なことであってもね。

飛行機の乗り方とか、ホテルの予約の取り方とかって、誰に、いつ教わるものなの?

 

そうした、もっと単純なことさえ、自分はできないでいる。

これってものすごく自信を失うものだ。

 

自信のなさに加えて、人と関わったり、話をするのを極力避けたい人間だから、より知る機会は奪われ、より自信も失わせる。

こんな自分が嫌にもなるよ。

 

まあ、新しいことをするってのは、そういうもので。

 

トライを繰り返しながら、身に着け、経験として噛みしめていくのが20代ならば、その機会をあっさりと手放してしまった自分に対して、大変悔やまれるというか、嫌いになる。

 

やはり、3年の引きこもりは、痛手だ。

この性格をもって、それにプラス3年の引きこもりだから、もはや手が付けられない。

 

もう、落ち込むし、泣きたくなるよね。

 

でも、その当時は、積極的に生きたいと思わなかった。

そんな時期に、勉強も経験も、将来も、全てないんだよ。

 

20代を終えた今になって、ようやく焦りというか、知らないことに対する恥ずかしさと悔しさで、もう感情が落ち着かなくて、泣いている。

 

ようやく、受け止めようとしている。

結果と過程を。やってしまった過去を。

 

「知らない」ことへの定義も、大人のものへと変わっていったことを、前に書いたけど。

そのとおり、確かに悔しいし、情けなくて恥ずかしい。

 

でも、こうも考える。

 

別に「知らない」こと自体は、全然恥ずかしいことではないのかもしれない、と。

 

「知らない」ことは、むしろこれから「知れる」チャンスでもある。

知らないことを知れる、これって、本当なら大きな喜びじゃない?

 

ただ、それが、自分の自覚している部分による経験の浅さや、避けてきたこととか、苦手なところとか、そういうところと結びついてしまうから、そこに恥ずかしさや悔しさが生まれるんだと思う。

 

普通に知らないだけなら、こんな感情にはならず、ただ普通のニュートラルなままの感情で、新しいこと、知らなかったことを受け入れられるんだと思う。

 

要は、それを受け入れる自分の中の環境によって異なるってことで。

 

私は昔から、人とコミュニケーションをすること、新しいこと、自分ひとりでやることが人一倍怖くて、恥ずかしくて。それらを苦手と分かっていたから、大抵は人にやってもらっていた。

 

当時からもそうだったけど、幼いながらに、そこに恥ずかしさや負い目を感じていた。

 

幼稚園の時、どうしても先生に声をかけられなくて、友達が代わりに言ってくれたことがあった。ありがたいという感情と、なぜ自分はこうなんだろう、という情けなさもあった。

 

その後、先生から「自分で言わないとダメだよ」とお叱りも受けた。

 

だから、そういったことで伸ばし伸ばしになって、未だに経験できていない部分とか、慣れていない部分とかを「知らない」ことで改めて意識させられる度、恥ずかしくて、しょうがなくなる。

 

なんだろう、傷を抉られる気分。