お金の勉強って、結構広い。
会計もそうだし、稼ぎ方、株などの投資のこともそう。物の値段や買い物の仕方、税金、はたまた経済にまで及んだりして。
とにかく範囲が広い。浅く広く、という感じで本を借りるのが精一杯。
今日読んでいたのは、物の値段のお話。
そこで、最も興味を得たというか、気になったのが。
商品は機能などの明確な部分より、非常に曖昧な部分にこそ、価値があるという話。
というより、そっちの方が重視、評価されるってことだ。
モノの値段はモノそのものより、それをデザインした人、原料を作った人、組み立てた人など労働の対価に多くを充てられる。
しかし、どんなに画期的な機能の商品であっても、類似品が出ることで、モノ本来の機能だけでは勝負できなくなり、結局、カラーバリエーションやデザインといった、曖昧な部分で売らなければならなくなる。
実際、このデザインだから欲しい、というのはよくある話。
さらには、このメーカーの商品が欲しい、あのタレントが宣伝している商品が欲しい、といった部分にまでいくと、もうモノの機能の価値というよりは、ブランドの価値、ということになる。
曖昧な部分(ブランドや発信者など)の方に人はなびき、よりお金は集まっていく。
場合によっては、○○さんと同じものを持ちたい、買いたい、のように。
だからこそ、物を実際に作ったり売ったりしている人より、それを宣伝したり勧めたりしている芸能人、ブロガーやインフルエンサーといった発信者に、お金が集まっていっても、何もおかしいことではない。
モノが売れなくなって、モノの機能面だけで勝負できなくなって、だからこそ、「○○が宣伝しているから」「エコな感じでなんかよさそう」とか、人の感情に訴えかけるところで、勝負してるんだろうかな。
だから、感覚に訴えかけられるもの、宣伝にお金をかけよう。
ってことになる。結局、それを買うのは人間だから。
服だって、別に最低限の枚数だけ買って、ローテーションすればいいのに、いろんな服を買い漁ってしまう。
お洒落な人だと思われたい、このブランドの時計をしていると信頼を得やすい。
機能だけで見れば、服は身体を保護するため、時計は時間を知るため。
このハッキリとした機能よりも、それに付随する別の意味、記号を、社会で生きている人は、重視する。
こういう、曖昧さを優先させているのは、何も別にモノを買うだけの話ではなくて。
別の視点で考えてみると、数値など正しい理屈や理論よりも、曖昧で感情的な部分の方がより重視されている、ということでもある。
正しい根拠に基づいた情報であっても、そこについて回る自分の感情の方を優先させてしまうことって、ある。
「ちゃんとしたデータが示されているけど、でも、なんか怖い」
「確かにそうかもしれないけど、なんか怪しい」
さっきの話に戻ると、お金だって、製作する側よりは、それを宣伝する側の方が、たくさん稼げる。
商品を買うのは感情をもった人で、だから消費者の感情を動かすような宣伝をするのがメーカーにとっては重要だし、買う側も分かっている。
でもその一方で、ただ宣伝しているだけの人が、そんなに大金を稼いでいるのが感情の上では、納得できなかったりする。
これこそまさに、理屈より感情。
理屈ではこうだと分かっていても、なんか納得できない、許せない、みたいな。
そういう場合、採用するのは大抵自分の感情の方。
ね、結局ヒトである以上、感情には勝てないでしょ?