子どもの頃から、叱られる経験がなかったから、大人になってちょっと叱られただけで、すぐにダメになってしまう弱い人間ばかりが増えた。
なんてことを書いてる本を読んだよ。
褒めて伸ばす=一切叱らない→大人になるまで叱られたことのない大人の出来上がり。
若い学生が言ったことそのまま鵜呑みにして、そんな方程式を作り上げたらしい。
その人曰く、昨今は傷つきやすい人間の、なんと増えたことか。
まあ、育児を論じるつもりはないけれど。
結局、どんな教育を親がしようとも、結局その責任を問われるのは当事者である子どもである。
傷つきやすい人間が増えた。
そんな人間が増えたかどうかなんて分からないし、その原因も分かるはずもない。
しかし、あえて無理やりその要因を考えてみると、感情のコントロール、正しい発散、受け止め方があまり上手じゃない人が増えたから、の方が近いかなとは思う。
それらを学ぶ機会が少なくなっている。
そんな気がする。
耐性があるかどうか、ではなく、そうした感情やストレスを、どう処理していいのか。
その訓練がうまくできないから、大人になっても不安定なまま。
不安定なまま、波に飲み込まれたら、溺れるだけよ。
子ども時代は、そうしたこと、人間として根本的なことを学ぶ時代だと。
学びの場。
親を通して、兄弟を通して、近所の子らを通して、親戚を通して。
そうした機会がなくなっているから、若いうちから経験ができにくい。
もっともストレスだけなら、今の子どもの方が随分抱えているような気がする。根拠はないけど。
今の子どもの方が、そうしたストレス耐性はあると思う。
遊びたくても、遊べない環境だとか。私らの世代は、分からん。
自分にとって、不愉快な出来事が起こると、不愉快な感情が湧き上がる。そして、不愉快な気持ちになる。
例えば、怒られたときの感情。
その感情がどんな感じで、どんな風に思っているか、どうしたらいいのか。
正直、それらを人から教えられたことはないし、自分でどのように感じていたかも分からない。
そもそも、怒られたら、人はどんな感情が湧くのか。
悲しいのか、腹立たしいのか、恥ずかしいのか。
私にとって一番身近だったのが、恥ずかしいという感情だ。いや、羞恥は感情なのか。
そもそも、感情というのは、衝撃のことだ。
自分にこれまでなかった衝撃が襲い掛かることを感情というものだとしたら。
感情それ自体は、単なる衝撃波。
それが、心地よいのか、不快なのか、それを判断している部位、それによって感情に意味が与えられる。
心地よければ、嬉しいかもしれないし、楽しいのかもしれない。
不快であれば、悲しいかもしれないし、恐怖、怒りかもしれない。
衝撃をどう結びつけるかは、人によって違うものなのかしら。。
ただ、私は昔から、自分には怒りがない人間だと思っていた。
あるいは、そう思いたかったのかもしれない。
いつも笑顔で、人にやさしい。親切。決して怒らない。
どんなことでも、「いいよ。」で許す。
何かあったらすぐ「ごめん。」
もう一つの口癖は「ありがとう。」
こんな自分を演出していたのか、元々こういう人間だと思い込んでいたのか。
今ではそれすらも分からないけれど、間違いなく、小学生から中学生くらいまでは、こんな自分で学校生活を送っていた。
だから、人に対して怒ったこともなければ、人前で泣いたこともない。当然、暴力なんて振るわないし、自分の意見を押し通すこともない。
喜びこそ表現するが、悲しいことがあっても、気にしていないフリをする。
では、一見落ち着いているかのように見えるかつての自分が、感情を正しくコントロールできていたといえるのか。
いや、私は、感情をうまく抑え込んでいたにすぎない。
そもそも、感情という衝撃があったかも分からない。
その衝撃は、随分と微細なものだったかもしれない。
ああ、なるほど、繊細に感じやすいって、この衝撃が人一倍大きいってことなのか。
逆に、鈍感な人は、この衝撃が微細すぎて、気付きにくいのかもしれない。
でも、私は今も昔も精神面では繊細な部類に入るから(とにかく線が細いと言われるレベル)、生まれつき衝撃それ自体は大きかったはずなのだ。
なのに、一部の衝撃に気付かなかっただと?
あるいは、意図的にその衝撃を抑える何かがあるのかもしれない。
湧き上がってくるものを抑え込み、意識の上に上がってこないようにする。
そんな難しい何かが実はあって、自身を防御するために知らず知らずのうちに、それを実行していたのかもしれない。
そうやって抑え込んでいたから当然、感じたそれらを表現することもしない。
あるいは、表現することができなかったから、衝撃を抑え込むようにしていたのかもしれない。
こういったことは、コントロールとは言わない。
長いから続く。