時にひきこもる思考

一言で言えば、ただのエッセイ

我々は捨てるを覚えた

年末に友人と盛り上がったことがある。
それは「お片付け」の動画を見ていた時のこと。

ふと友人がこぼした言葉だ。
「今は簡単に捨てられるけど、昔は捨てるっていう行為を知らなかった」

わかる。
私も小さい頃からなんでも残しておくのが正しいことだと思ってた。

テストも何年経ってもファイルに綴じて保管。
おもちゃも、漫画も本も、大事に取っておくことが自分の当たり前だった。

「服とかさ」
「そう!!」
「教科書とかノートとか」
「うんうん」
「図工の作品とか」
「だよねぇ」
「鍵盤ハーモニカとか、汚れた絵の具セットとか」
「・・さすがにそれは、、」

そこまでは共感を得られなかったけど、基本的にはなんでもかんでも大事に蓄えておくことが当たり前だった。
私も、友人も。

そして、私も友人も、今は「捨てる」ことを知っている。
そして、お互いの親たちは、なんでも蓄える常識をまだまだ持ち続けていることも。

使えるけど、もう使わないものをどんどん平気で処分していく姿に、友人の母は「信じられないものを見るような目」で見てくるのだという。

お互いの母親は、いつまでも古いものを大事に持ち続け、着続けている。
一見すると大事に使ってるってことだけど、それよりも快適な方を選べばいいのに、と思ってしまうのは、最近の価値観なんだろう。

そんなスカスカになった靴下より、新しい靴下の方が気持ちがいいでしょ?暖かいし。

人には新しいものを買ってくるクセに、どうして自分にはやらないのだろう。

これこそ他人には優しいけど、自分には優しくない人だ。
そういう人が、私らより上の世代にはたくさんいそうだ。
特に、主婦の方。

「だからさ、私らは先に目を覚ましたんだよねぇ」
「蓄えること、持ち続けることが正解の洗脳から」

これもある意味、親からの洗脳だったんだ。
だって親が捨てない人だったのだから。

そこから自力で目を覚まし、必要なものは持つけど、不要な物は処分していくという思考へと変わった。
私らは、頑張ったんだ。

成長というのは、そういった親から無意識に受け継いできた常識や呪縛、洗脳から抜け出すことかもしれない。

ある意味、それをやり始めるのが「反抗期」というのなら、反抗期がなかった自分らは、そのしかるべき時期に親から抜け出す一歩が踏み出せていなかったのかもしれない。

反抗期というのは、親の持つ価値観と自分の価値観に違和感を覚え、どうにかもがいて確立させようとする大事な成長の始まりだから。

私らは、それが遅かったんだねぇ。

古いままだと時代に残されていく。

それにしても、お片付け・断捨離といったコンテンツって、主婦がよく見てるイメージだったのに、どうして私らの母親は、ああいうのを見てるのに生活を変えようとしないのかしら?

私だったら、「自分も頑張ろう、、!」って思うのに。

「もう得られないかもしれないという不安なのか、、
 所詮、他人事としてしか見てないのか、、」

私らも年を重ねたら、もう手に入れられないかもしれないと不安にかられて、再び蓄えに走るのだろうか?