時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

仕組まれたプログラム②~思考が緊張、躊躇を呼ぶ

どうして人と関わることに怯えてしまうのだろう。

私は考えた。

原因はいくつかあると思う。

まず、コミュニケーションが苦手。

 

これも原因があって、声を出すことがそもそも苦手。

何を話していいか分からないため、会話が続かない。自信がない。いい反応ができない。等、いろいろ。

子どもの頃から声が小さいのか、声を出すことが苦手だった。

だからこそ、注目されているところで発声することがより苦手になり、小さな声にもコンプレックスを感じるようになった。

また、昔から親子間であっても親密な会話(学校で何があったか、友達と何をした等)をあまりしたことがない。

自然と育まれる会話能力が育ってないため、どう反応していいのか、上手く合いの手が打てない。

さらに、そんな自分に嫌気がさすため自己嫌悪になり、ますます人とのコミュニケーションが苦手になってゆくのである。

 

問題はコミュニケーションの不得意だけではない。

そもそも、人を信用していいか分からない不安感もある。

警戒心が人一倍で、ものすごく慎重になる。だから、なかなか人に心を開けない。これまた、裏切られたら傷つくから。

傷を正面から受け止めることさえ抵抗がある。あまり人と比べたことなかったけど、私は本当に傷が怖いらしい。

そして心を開いたら開いたらで、ものすごく我儘かつ図々しくなるから困りもの。

これが私にとっての甘え方なんだけど、なかなか理解されないだろーな。

ま、結局この問題の根っこは、めっちゃ傷が怖いっていうことになる。

かもしれない、ですら恐怖を感じる。

これはもう、相当に深いプログラムが施されているようだ。

 

あらゆる人間との関わり合いには、勇気が必要だと思っている。

なぜなら、小学生の時、私はいちいち勇気がなくて困っていたからだ。

手を挙げて発言する時、友達になる時、前に出て発表する時、先生と話をする時。いちいち勇気を必要とした。

そして、それらの行動を躊躇してしまう時、私は必ず自分の勇気のなさを嘆いた。

ではさて、勇気が欲しいの勇気は、一体どういうものが具体的に欲しかったのか。

逆にどういう状態なら、勇気があると言えたのだろうか。

10歳の私は、自分の行動のできなさを、勇気がないからと結論づけた。

30歳の私は、もっとそれを具体的にしていこう。

 

分かりやすく考えてみよう。

勇気がある状態というのは、何かをやるのに、何のハードルも感じていない状態。

当たり前のようにできる、そんな自信をもった心理状態といえる。

だから初めてのことには、勇気を必要とする。

できるかどうか、自信が持てないからだ。

逆に考えよう。どういう時なら、勇気を必要とせずに行動できるのか。

例えば、家でトイレに行くことに、勇気も自信も湧かせる必要はない。

しかし、外でトイレに行く場合、家よりかは勇気が必要になるだろう。

また、家で飲み物を取りに行く時も、勇気なぞ必要としない。

しかし外(飲食店)で飲み物を取りに行く場合、やはり多少の勇気は必要だろう。

これは、緊張しているかどうか、とも捉えられる。

家だと緊張はしないが、外だと緊張する。

緊張するから、それを押しとどめ、それを乗り越えてやろうとする時、人は勇気を湧かせる必要がある。

では、なぜ外だと緊張してしまうのか。

外で緊張するのは、考えてしまうからだ。

ここであっているだろうか、込んでいるだろうか、タイミングは大丈夫だろうか。飲み物を落とさないだろうか、失敗しないだろうか。

そうしたちょっとした思考が、もしや、という不安を誘い、結果緊張してしまう。

この、考える隙が、躊躇を呼んでしまうのだ。

 

この考える隙は、かなり的を得ている。

例えば、外で誰かに話しかける時、慣れない場合は躊躇してしまう。

しかし自分が切羽詰まっている時や、目の前でお年寄りや子供が転んでしまった場合。

これはもう、話しかけるのに勇気なんていらない。

そんなことで躊躇している時間などない。何も考えずに助けを求める、もしくは自分が手を差し伸べるべきだ。

つまり、考えられる時間があるかないか。

迷う時間があると、いろいろ考えてしまう。

そうすると、そうしたモヤモヤを乗り越えるという余計なタスクを自分に課してしまい、そこでエネルギーを使ってしまう。

こんな風に、勇気を必要とするのは、緊張するかしないか、考えることが必要かどうか、と同義と捉えることができる。

つまり、人と関わるには勇気を必要とする、というのは言い換えると、緊張する、いろいろを考えて不安になってしまうという壁から、私はそれを苦手と思い込んでいる。

勇気の有無ではなく、している、していないという、自分の感覚でとらえられる問題として考えていくと、一気に分かりやすいね。

 

仮説ではあるけれど、緊張さえしなければ人との関わり合いはずっと楽なものになるし、考える猶予があればあるほど、苦手意識はより一層増す気がする。

でも、やはり家と外同様、他人というものは必ず緊張を生むものだ。

どうしたら、緊張は減っていくのか。いや、緊張をそこまで生み出してしまう私の状態とは、どういうものだろうか。

そんなもの、別に緊張しないよという人がいる以上、傷つく同様に、その度合い、感じ方はかなりの個人差があるようだ。

感受性、と一言で言えばそうなのだが、こういう出来事によって、どれくらいの緊張や傷つきが自分にもたらされるのかは、何かきっかけや、観念、思い込みがあるはずだ。

 

その、きっかけがはっきりすれば、幻想から覚めそうなのに、それが分からないから困っている。