「マイバッグ 3つのバッグで軽く美しく生きる」という翻訳された本を読んだ。
バッグこそ、常に持ち歩くいわば、パートナーのようなもの。
思えば昔から、それこそ小学生の頃から外出時にはポシェットを持って出かけた。
その当時から男は手ぶら、女は出かける時にはバッグを持つものだという、そんな刷り込みが出来上がっていた。
当時なんて、外に出ても、毎回何かを自分の財布から買うなんてことはなかった。
出先のお手洗いで、ハンカチで手を拭くなんてこともなかった。
ティッシュを持ち歩くことはなかったし、鍵といっても、親と出かける際には不要。
それにもかかわらず、家から一歩でも外に出る時、かならず何かしらのバッグは持っていた。
なんというか、何か手にもっていないと、不安になっていたから。
バッグがあれば、何かを握っている安心感があったし、肩にかければ、そこに体重をかけられる。
お洒落だとか、そんなものよりも、無ければ身体が落ち着かない。手がなんか恥ずかしい。持って行き場がない。そんな気持ち。
しかしそんな私も、今は、散歩の際は鍵以外、何も持たずに出かける。
オドオドと、人と目を合わせるのが怖くて下を向いてバッグを握りつつ歩いていた頃と違い、一人でも普通に歩いて行けるだけの精神を手にした私は、手を振って歩くことを覚えた。
それだけ、何もなくても安心できるようになったのだ。意図はしてないが。
しかし、日常の多くはバッグを持つもの。
だからこそ、自分に合った、気に入りのバッグを手にしたい。
それを見つけるにはどうしたらいいかを書かれた本でした。
当然、それらはただひとつのバッグではなくて、その人にとっての「最適」なバッグであること。だからこそ、難しい。
私自身、頻繁に買い替えることはないけれど、出先でよさげなバッグを見つけると、
悩んだ末に購入し、その後しばらくは使うものの、いつのまにか、棚の隅に追いやられていることが多い。
じゃあ、その時、何を使っているかというと、普通の布鞄である。
雑貨屋で3千円ほどで売っている、トートバッグ。
結局、自転車と徒歩がメインの自分には、これが一番合っているのだ。
日帰り旅行にだって、トートバッグは優秀。
合成皮革のバッグは、以前はメインで使っていたし、今も買うのはそういうバッグになるけれど、なぜか途中で使うのをやめてしまう。
落ち着いたピンク色のショルダーバッグは、大きさも色もいいけれど、自転車のカゴに入れて走るせいで、四隅に傷がついたことがショックだった。
普段着ているパンツ系の服や、カジュアルな服だと、なんとなく合わないような気がして、気が付けば中身を全て取り出していた。
その後に買ったベージュと白のツーカラーの小型のバッグは、ほぼポシェットである。
小型なサイズ感、色も形も最高だけど、やっぱり普段自転車のカゴに入れて持ち歩くには似合わない。毎回汚れてたし。
綺麗な見た目のものは使わなくなる、ならばと、ボア素材の思いっきりカジュアルに走ったショルダーバッグは、逆に学生感が強すぎ、しかも冬だけの出番ということで、お役御免。
他にも、黄色の春めいたハンドバッグは、色はいいけどモノを入れると形が崩れ、ついでに匂いも取れなかったため処分した過去。
20歳の頃に使っていたセミショルダーは、気に入っていたが故、合皮由来の剥げに心が耐えられなくて普段使用を制限していたところ、いつの間にか持ち歩くには華やかだと思い始めて、処分。
他にも色々あるけれど、基本は剥げや色落ち、普段の服に合わないなどの理由によって、距離ができ始めたら、もう元には戻らない。
だから結局、持ちやすいサイズのトートバッグ、ってところに落ち着く。
で、またお店で惹かれるものがあれば、それを悩んだ末に購入してしまう、というパターンに入り込んでいる。
一度棚に戻したバッグは、よほどのことがない限り、呼び戻されることはない。
そりゃ、デートだとか、大事なお出かけなら別だろうけど、そういうことはほぼ皆無。
毎日の日々には、手っ取り早く持ち出せる、汚れても構わないようなトートバッグになる。
特に最近は、暇つぶしでミシンで作ってしまうため、それをそのまま日常に使うことが多い。
この夏にも1つ作ったので、さっそく古くなった前作と取り換える予定です。
まあ、なんでもかんでも買ってしまう人ではないから、そこまで大きく悩んではないけれど。こういう本を読むと、ちょっと振り返って考えてしまうよね。
でも、一番は、綺麗な気に入りのバッグが似合うような生活、そして女になることかな。
結局、今の自分には布カバンがお似合いってことだもの。
『マイバッグ 3つのバッグで軽く美しく生きる』 ドミニック・ローホー