時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

神社にある鏡

 昨日は、帰りに神社へ寄ってきた。

昔から初詣のときだけ、足を踏み入れる神社。

わりと最近、改装だか何だかを経て、小綺麗になったと見える。

広い神社だと思う。境内は広いけれど、全体的にすっきりとした印象。モノがごちゃごちゃしていない片づけられた家、という感じ。

 

その日、長めの参道を進んでいくと、珍しいことに拝殿が開かれていた。

今まではどうだったか、分からない。

そもそも、参拝する行く時間はいつも遅いため、大抵はどこも閉まっていることが多い。

しかし、今日行ったところは、もう夕方だというのに開いており、そこには、カーブミラーを思い起こさせるような、丸い鏡が奥にあった。

神社には御神体として鏡があるというのは、知識として知ってはいたけれど、この目で見るのは初めてだ。

 

目を閉じて心で祈る。

仕事とか、幸せや喜び、自分で内に、外に見つけに行けるようにと。

本当、最近はエネルギーが抜かれているみたいで、本当、体力も気力も減っていたから。

そして、ここ最近、自分の気持ちを表現しようと頑張っている自分のことも報告。

それと同時に、それを許してくれる環境に対して、ありがたいと思っていることも自然と出てきた。

普段は自分のことばかりで、そんな気持ちなんて湧くことはなかったけれど、こうして目を閉じて手を合わせていると、自然と浮かんでくる素直な気持ち。感謝の心だ。

それこそ、ここしばらくあまり参拝にも行けておらず、出来る限り賽銭はするという自分の中での取り決めさえ、守れていなかった。つい、惜しんでしまうから。余裕がないと、食にも走りがちだし。なんでも貯め込んでしまう。

ここしばらくはエネルギーが枯渇し心身ともに消耗しきっており、買うものはコンビニの食べ物ばかりだったから、逆にあえて、こういう時くらいは、と。少しばかり奮発。

そんな自分に、ちょっと笑顔が戻る。

 

神社には、お願い事と、これからの決意、はたまた愚痴や弱音を静かにそっと語りに行く場所だと思っている。

ひとしきり語った後、まっすぐ目を向けた先にあったのは、鏡に映った自分。

神社って、神様に祈りにいく場所ではあるけれど、今日、鏡に映った自分を見ていると、神様との約束事ではなく、自分との約束事をしに行っているような気がした。

結局、喜びや幸せを探しに行くのは、自分。

自分を助けられるのも、自分。

汝、汝を助けよ。

なんか、涙が滲んだ。

 

八木龍平さんの書く神社の本によると、その鏡に映っている自分は「生まれる前の自分」だという。

参拝することで、鏡を通して「あの世の自分」に対面し、自分の使命を確認する、そういう場所が神社らしい。

参道で祓い清められ、スッとなった心で手を合わせることで、いろんなものを受け取れる。少し、正直になれる。

おかげでちょっとは不安定だった気持ちが落ち着いたみたいだから、今日、気まぐれにウォーキングの途中で寄り道してよかった。

本当は買い物に行きたかったけど、そんな気分じゃなかったのよね。それで正解。落ち込んだ気分で選ぶ買い物なんて、大抵成功しないから。

 

その日の夜、タイタニックの映画をテレビでやってて、初めて視聴したのだけれど。

ローズが最後、救助に来た船に助けを求めるシーンに熱く震えた。

船員が気づいてくれて助かるものだとばかり思っていたけれど、無情にも、ローズに気付くことなく去っていく船。

過ぎ去っていく船に対して、声を出して呼ぶのだろうか、そう思っていたけど。

ローズは自ら、歩み寄っていった。漂流していた船員が、居場所を伝えるために吹いていた笛のところまで泳いで。

ローズは生きるために。

自分から、助かるために。

なんかこう、グッと来る。一番、よかったシーンかな。

今までの自分が、そういう心境だったこともあり、心が動いた。