結局、昨日は1時間という短い時間、内に秘めた思いを外に出すことに必死で、なんかものすごくエネルギーを持っていかれ、号泣で体力も消耗、終わった頃には体に力が入らず、そのまま仕事に戻らずに帰宅した。
そして、天気の赴くまま自転車を漕いで、自然の残っている所まで走った。
道中、泣いた。
こんな状況の自分を抱えて、じゃあ、これからどこへどう生きていっていいか分からない。
仕事が苦手。押し殺すようなやり方で自分を律して、ビジネスするのが無理。
かといって、母にもなれない。
何にも向かない。それをするための、最低限の自分の自信すら、失われている。究極、もう生きていたくない。それくらいまでには、消耗しきっていた。
何にも向いていない。
自分の才能、特徴を発揮できる環境、居場所ってどこだろう。
そんな居場所を探さないとダメなんだろうけど、それすら厳しい。それを乗り越えられるような、そんな丈夫な心身を持ち合わせていない。どうしよう。
なんで、こんなことになったのだ。
1年前、勉強を楽しくやってたじゃないか。
自分ができることを伸ばそうって。本も買って。英語とか、語学をやってみようと毎日小さな積み重ねをしていた数か月前が、まるで他人の物語だ。
どうしてこうなったんだ。
自信もやる気も、何もかも失われて、一体私に何が起こったというのだろう。
1年の間に、何が。
(帰宅後、動画でピアノ演奏を聞きながら、占星術についてのブログを読みつつ)
でもね、ある意味、こうも考えられる。
今までの自分なら絶対にできなかったことをやろうとした自分。
で、実際にやってみている自分。
前との違い。そして、できない自分、やりたくない自分をあえて表現しようとしているってことは、それだけ、居場所を作りたいと思っているのかもしれない。
素直な自分、自分はこう感じている、こう思っている、そうした本当の自分を出しても大丈夫だと。自分自身にも周りにも。
自分の中で信頼しているし、それだけ安心できる場所だと思っているからこそ、出せている今があるのではないか。
本当に嫌なら、そんな葛藤もせずに、簡単に切り捨てられるよ。どうでもいい相手に、わざわざ弱さなんて出さない。敵の中において、そんな無防備なことはしない。
それが、ごろんとお腹を見せる犬のように、大丈夫だと安心しているからこそ、こうして弱音吐けたり、そういう片鱗を一部見せられたりする。
かに座、どうでもいい相手には優しく親切に他人行儀に対応できるけど、親しい、信頼した相手なら、時に厳しい愛でもって接するし、甘えて毒を吐いたり。
この人なら大丈夫って思えるから、自分のそうした秘めていた部分まで、見せられる。
それまでは、いってみれば「いい子」の仮面かぶって、いい子ぶってるわけね。
ここまでなら大丈夫、でもここからは無理って、割と線引きできていると思うから。
だからこそ、今回のことも、そういうことが自分の中で起こっているのではないかなと。そう考えられない?
生身、人間で言う本音とか、そういう部分が傷つきやすくて、だから殻で守ってるのだけど、大丈夫だと思った段階で、その殻を頑張って脱ごうとしていて。
でも、そんな素直になった分、そのせいで自ら、今度はそれを失っていきそうで、なんかもう、どうにもうまくいかないことに。苦しむ。
愛おしいよね、なんか。
それに気付いてしまったから、再度号泣。自分の不器用さに。それでも、そうあろうとした自分の健気さに、愛しささえ感じる。
ちょうど、それを考えてた時に聴いていたピアノ曲が、ニューシネマ・パラダイスの「愛のテーマ」。
好きな曲。まさに愛。
以前にも書いた、いい子をやめた途端、みんな離れていく。だから、それが怖くていい子の仮面を外せない、そんなことをおっしゃる方。
私は、今回自分の殻を脱いで自分を見せてみたけれど、そのせいで、得たものすら失っていくなら、殻を脱ぐことを今後も恐れるかもしれない。
怖いよね。大好きだから、安心して本音みせて、その分、キツイことや思いを言うことによって当然、従順なこれまでの私ではなくなるけど。
それは他の誰かにとって、嫌なことかもしれない。だから、殻脱いだ途端に、そういう人は離れていく。
でも、安心できないと殻を脱げない。自分を見せられない。
最初から見せればいいなんて、難しいよ。そういう生き物だもの。これは、なかなかにジレンマ。
こういうこと、正直仕事上でやられたら、たまったもんじゃないんだけどね。
恋愛とか、そういうプライベートな部分で経験してほしいとこだ。残念ながら、そういう経験がないものだから。
悩ましい恋愛って、人を成長させるよね。今の状況も、恋愛として経験していたら、また違った解決方法が見つかったかしら。
結局、人が乗り越えていく課題みたいなものは、同じようなもので。
それを人生のどこで、どんな経験を通して学ぶか、それらが違うだけのような気もする。