時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

はじめて自分の声を聴いたのは、高校生の頃だ。

学校で朗読の練習があって、そのときにレコーダーか何かで撮った音声を聞いたのが初だったはず。

その時の印象は確かこう。「なんか小さく縮まってるような、甘ったるい感じ」

 

自分では、もっとのびやかに気持ちちょっとハスキーめにしゃべってるつもりなのに、実際聞いたら、ものすごく甘ったるい。

アニメやアイドルのような、かわいい感じではない。

かわいい感じの音声が、内側に向かって閉じている、そんな籠ったような声をしているため、聞き取りにくい。おまけに昔からボリュームも小さい。そして、発している本人も、苦しいと思っている。

喉でしゃべっている声、というやつだ。

これがアイドルや声優なんかだと、甘くても外に向かって出ていくような可愛らしい声なので、この方向の違いは大きい。

まあ一言で言うと、積極的に聞きたい声ではない。自分の声って、大抵そういうものだと思う。

きっと、自分の中で聞いている声に、夢見てるんだと思う。その声のイメージでキャラまで作ったりして。でも、こうして客観的になると、ユメから醒めるというか。現実を直視して、恥ずかしくなるね。

 

そんな感じで、あまりしゃべり声に自信がない私。

1年ほど前に歌を録音したことがあった。その際も、自分としてはのびやかに歌っているつもりなのに、いざ蓋を開けたてみたら、キンキンとしてて聞いているだけで苦しい。恥ずかしい、下手だな、いやそれ以前に苦しい。喉が苦しくなってくる。

そう、声帯って、実はしゃべってなくても声を聞いているだけで動いてるんですってよ。

内側に籠る声質(しゃべりの癖)なので、のびやかに歌ったつもりでも、全く伸びておらず、無理やり声を張り上げているだけ、聞き苦しい声にしかならない。

こんな声を聞かせているのかと、少々落ち込む、現実から逃避したくなる。

しかしだ、そこから私は頑張って、ちょいちょい録音をやってみたのだ。

まあ、歌が上達したかったというのもあるんだけど。このご時世、誰かに聞かせる予定なんてないけど、それまでは、県外に住む友人らと1年に1回ほど遊びで歌いに行ってたのだ。

分かったことは、やはり歌との相性があって。高さとか、歌手の歌い方、そもそもの声質とか。自分の声質に合った歌をチョイスするだけで、結構印象が変わる。

そういう歌を歌って実際に聴いてみると、自分の中でも許容できる歌、声というものがあることが分かった。

これはもう、曲によりけり。どう違うかって言われると難しいが、聞いていて苦しくならない。下手だけど、嫌いじゃない音声。

むしろ、ちょっと落ち着くかも。歌手と違って、平坦な歌い方なところが特に。

で、そんな許容範囲の歌を歌って、何度か聞いてみたところ、自分の声に慣れた。ああ、自分だなって思う。

そうなってくると、最初に録音した歌を聞いても、最初ほどの嫌悪感はなく、まあ、こういう声を出すよね自分なら、と思うようになった。

張りつめて、無理やり出したような厳しい声だけど、それを冷静に聞くことができるまでになった。慣れとは、素晴らしい。

 

私の好きな本に「声のサイエンス(著者/山崎広子)」という本があるのだけれど、そこでも、自分の声を録音して自分の声を知って意識することで、心身の調子がよくなってくる、という提案があったのだけど。

なかなか普段の会話などの録音は難しいし、自分のしゃべり方の癖とか色々な欠点が見えてきて、とても耐えられなかったけれど。確かに、歌に関して言えば、いいと思える声と、聞き捨てならない、むしろ捨ててしまいたい声ってのがあるなーとは思う。

著者は、心地いい声っていうのは自分本来の声で、嫌だと思う声は、作った声らしい。

地声よりも少し低い声が、自分で聞いても心地いい声の人が多いそうな。私の場合、地声を低くしすぎて逆に苦しいから、少しくらい高い方がいいと思っている。

 

声も含めて、こうやって自分というものを切り離して客観的に見てみることに慣れると、嫌だった部分が、そこまで嫌じゃなくなる。というか、それに慣れてくる。そんなもんだよね、と思えてくる。前向きな諦めかもしれない。

もちろん、全然人に聴かせられるレベルではないし、もっと技術的にこうだったらなーとか、そういう理想は思い描くし憧れるけど、もうこの声質は、これでもういいやって思えるのだから慣れは不思議。

いや、本当は、発声のボイストレーニングに興味あるんだけどね。呼吸とか、話し方とか、そういうの。改善したい。声って、自分をアピールするための手段だからこそ、もっと自分の武器になってくれても、いいと思うの。

こうやって、地道に自分の部分部分を受け入れていく作業も、いいものですね。そんなつもりは毛頭なかったけど、結果論で。

 

結局ね、自分という存在を、受け入れるしかないんだと思う。変えることはできないよ。できない自分、嫌な自分をどうにかして変えるんじゃなくて。

それを嫌だと思う自分の感覚だけよ、変えられるのは。

できない自分をドーピングでできるように矯正するんじゃなくて、できない自分に慣れていく。もうええわって、そのうち思える日が来たら、自分変わったって思える。

そのための地道な作業。そう、自分を変える作業は、実はめっちゃ地味らしい。