時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

生まれなかった、あの子の思い

先祖を供養しよう、解放しようっていう試みに参加してきました。

そこで、まあ黙想をやったんだけどね。

目を閉じて、自らを振り返る。執着しているものは何か、恨みや憎しみは?見て見ぬふりをしている心の傷はないか?そうした苦しみは、親や祖父母、親戚、先祖にもなかったか?

そうしたことを目を閉じて自問してゆく。

 

私は、自分が傷ついていることや、恨み、執着・・・そういったことを思い返しつつ目を閉じていた。で、親との関係。

私ね、前にも書いたし、今でも分かっているけど、本当は親が好き。家族が好き。

本当は、そう思ってるけどね。なんか反発する心があって、それができなくて、もどかしい。本音と別のことを言ったり態度を示すのって、結構なストレスよ。嘘をついていることと変わりないから。

そこまでは、黙想なんてせずとも、もう分かり切っていることだったのだけれど。

 

私はね、家族に「好きって言いたい」。

どんなあなたでも愛してる、大好き。多くの人が欲しいと思っている言葉だけど、私は言われたいんじゃない。私がそれを言いたいのだ。

逆に言えば、そんな言葉を結構もらっているのかもって。もらったものを、与える側になりたい。

そんな視点に立てた時間だった。

 

そして黙想の続き、満たされなかった思い、無念が、先祖にあるだろうかってことを思い浮かべた時、そこに浮かんだのは叔母だった。

数日後に墓参りに行く約束もしてたし、それと今回の会は、まったくの偶然だったのだけど。

叔母は、実は子どもを流産してて、でも、今でも叔母はその子のエコー写真を持っている。辛い時に、それを見るのだそう。すぐに取り出せる場所に置いている。もう30年も前の写真だ。

生まれては来られなかったけど、確かに生きてたんだって、そう言ってた。心臓はできていたらしいから。

もしその子が生まれていたら、私の1個くらい下の子になってたはずだと。

 

そのことを知ったのは、実は4年ほど前で。それまではそんなこと、全然知らなかった。

昔から夏休みとか正月とか、たまにだけど出かけたし、遊んでもらって大好きな叔母だったけど、そんな素振りなんて全くなかったから、それを知って驚いた。

お墓参りのこともあって、それがずっと頭にあって。

だからこそ、私が「好きって言いたい」っていうその思いは、もしかしたら、その子がお母さん(叔母)に言いたかったけど言えなかったことなのかなって。

肉体を持って生まれてこられなかったから、言葉として伝えられなかった。悔い、悔しさ。

そんなものがあるのかなって。

なんか、そんなことが全て私の妄想なんだけど、黙想中に閃いてしまって、めっちゃ泣けた。

 

黙想の後は、結果をみんなでシェアしあったのだけれど、あらゆる気付きに泣いた人も多かった。

黙想中は何も浮かばず、感じることもなかったけれど、みんなに報告している内に、改めて気付くことができて涙する参加者もおられた。

Zoomでの開催だったけど、当然、私も人目を気にせず泣いてしまった。まあね、これは予想通り。だからメイクもろくにせずに出かけたのだ。

こういう集まりというか、みんなでやることの意味って、自分の思いを伝えて共有できることなんだよね。

自分の中でそれが発見できただけでは、足りない。いやそれでも結構泣いたけど、でも最後の一押しは、自分の口からそれを伝えること。自分で言葉にする。それを外へ出す。

言葉を発しようとした瞬間、感情的に盛り上がってしまって大泣きして言葉がうまく出てこない、なんてこと、私にはよくあることなのだ。

参加してた人らが急な涙に引いてたとしても、私にはそれが普通だから。

こうして言葉にしようとすることで、自分でも気づけない傷や思い、思いもしなかった壁やブロックを知ることができるから、私にとっての一番の解放は、言葉に出すこと、なんだよなぁ。

報告の際に泣き出した他の参加者も、きっと同じタイプだったのだと思う。

 

自分が気付くことで先祖の思いを軽くしてさしあげる。

その結果、先祖からの加護をいただくという、そんな趣旨の会だった。

改めて、お墓参りや供養という、世界共通にある行いの意味を考えることができた有意義な時間でした。