引きこもる思考

考察とnikki

自分が自分に許せること

同僚のおばちゃんと話していた、おばちゃんのかつての話。

今でこそ、マスクや部屋着を自ら作れる同僚のおばちゃんだが、かつては、自分で自分のためにモノをつくるなんて趣味は、無駄なものだと思っていたらしい。

そんな趣味を優先する時間があるならば、やらねばならぬ仕事、家事などに時間をかけた方がいい、いや、かけるべきだと。そういう主張を持っていたそうな。

 

しかし、その考え方が変わったのは、つい数年前。

ついでに言うと、自分のために洋服やモノを買うことにすら、抵抗があったらしい。

主婦をしつつ、時折パートタイムで仕事をしてきた経歴を持つ同僚は、あまり収入が多くないため、自分のために使う時間、お金というものに対する考え方が、わりとシビアだった。


でも、ある時、気付いたらしい。

自分にお金や時間をかけられるようになって、はじめて、人にもお金や時間を使ってあげられるようになったのだと。


自分に簡単な贈り物すら許せない主義なのに、他人のために誕生日の贈り物をするなんてとんでもない、本当はしたくない。心の底でそう思っていたらしい。

 

自分に対して思う心は、他人に対して思う心と同じである。

だからこそ、自分が自分に対してやれるようになったことに対して、他人にもそれをしてあげられるようになった自分に気付いたのだという。

 

私自身も、なんとなく、朧気にだけど分かる部分はある。

自分が欲しいものを我慢している時に、人にものをあげよう、なんて絶対に思えない。

あるとすれば、見返りの期待だ。

 

そんな話を聞いて思い出したのが、仏教的な本を読んでいた時のこと。

釈迦だかキリストだかは、お金を恵んでもらえるよう、あえて貧しい人々のところに乞いに行ったらしい。

それは、いつも一方的に恵んでもらう立場にいる貧しい人に、そんな貧しい自分でもできることがあると実感してもらいたかったから、等と言われている。

はっきりとした記憶ではないけれど、確かそんな話だった。

 

そんな本を読んだ後、私が少しだけ実践したのは、神社でも募金でも、自分のできる範囲で寄付という形で、稼いだお金を分け与えること。

その時は、あまりピンとは来ていなかったけれど、今までにない心境の変化をもたらすためには、実は有用な手段というか、教訓だったのかもな、とも思える。

 

実際、私自身もお金を多く持っている方ではないため、神頼みのための100円玉ですらケチるような人間だったのだから。


人に対して、そういう気持ちがない人間は、自分に対しても、何かピシャリとした決めごと、主義をお持ちでいる可能性が高い。

彼女が、収入が低いから、自分のためにお金と時間をかけることを許せなかったように。

自分が一番大切、そんなことは当たり前のことで、だからこそ、あらゆることが自分基準になっていることを理解しておかなきゃ。

自分に対して許せないことは、他人に対しても許せないし、それができてしまう他人のことをもっと許せない。

なんでも自分基準。


だからこそ、周りを見てたまらなくイライラする人は、イライラする原因を自分が主義として持っている、しかも、それに気づいていないんだナ。


日本人って、宗教を信じないというか、関係ないですよ、と言って大した理由もなく遠ざけている人が多くみられるけれど、それによって実は、結構重要な大事なことを教わる機会を失くしているのかもしれないと思うと、勿体ない。

もちろん、彼女のように、実体験の中で学んでいくのもいい。生きた知識とはそういうものだと思うし、経験に勝る知識なんてものはない。

しかし40代でそれに気付くより、ある程度最初から知っていた方が、「あれはそういう意味だったのか。」という発見にもなり、自分の今の成長レベルを実感できると思うのだけれど。

 

ほら、そういう何かを比べる対象や見通しというものがないからこそ、先が全く見えず、自分の位置も分からずに孤独に苦しむのであって。

でも他人と比べると、余計な劣等感を抱くこともある。それならば、先人たちの知恵というものを目標地点にしてみるのも、いいのでは?

 

まあ、若い時にそんなことを言われても、どうせ説教だと捉えられて、ウザがられるんだろうけど。

そういうお節介な説教する人間すら周りにいなくなった世の中ならば、そんな対象を自ら探さねばならない。

そういう時、本や宗教というものは、ひとつの指針になるなぁと思えた。

 

今日の同僚が話してくれたことが単純に嬉しかったし、その彼女の喜びを少し理解できる自分にも嬉しかったのだから。