~前半のつづき~
・第1ステップ「傷つき」の認識
・第2ステップ「怒り」の受け入れ
後半のはじまり
残りのステップ、ここからが実に難しい。
第3のステップが「相手を理解しようとする」こと。
許せないのは十分承知の上、そういう個人的な感情はちょっと脇に置いといて、相手のことを考えてみよう、というステップ。
自分を傷つけたり攻撃したりしてきた相手には、実はのっぴきならない事情があったのかもしれない・・・
その事情とやらを、想像してみるのだそうだ。
しかし、これが一番難しい。
自分を傷つけた相手、さて、どんな事情があるのか、説明してもらいましょうか。
・・・そんな開き直れる人間なら、そもそも許せないことで悩まない。
傷ついたのはこちらのはずなのに、なぜ相手のことを考えてやらにゃあならんのか。
・・・その意見はごもっとも。
私も許せない人間一人として、やはり相手の事情を想像するつもりなんて、ない。
だから、ここは私なりの解釈として、とりあえず、自分の身に起きたことを冷静に、ちょっと距離を離して眺めてみる、というのはどうだろうか。
傷つき、悲しみ、そして相手への怒りが湧いてきて、一度その感情から少し離れてみる。
いつも嵐の中心にいるのでなく、たまには嵐を離れたところから見てみる、視点の切り替え、気分転換。
毎回毎回、許せないと思っている思考では、いつまでたっても、違う道は見えてこない。無理やり切り替えてみたら、また違う何かが見えてくることもある。
最後、第4のステップが「ケリをつける」。
一言で言えば、許せないという関係を終わらせること。
この終わらせ方はいくつかあるらしく、最も多いのが、その人と物理的な距離を置くこと、だそうだ。
正直、相手に直接戦いを仕向けるのは現実的でないし、さらなる火種となりうる。
直接こちらが伝えて相手に謝ってもらうなど、初めからみんな期待していないと思う。
だから、もう、距離を置くしかない。
あるいは、笑って話せるようになるまで待つか、許すことをそもそもやめるか。
許すことが絶対的な正義だと、筆者も言っていないわけだし、許すことばかり考えすぎて、逆にストレスを抱えることもある。
ならいっそのこと、許せない自分を許す、というのも一つの解決策だと言う。
許せないままでもいい。
正直、許すことは難しいことだ。
私自身、何度も同じようなことで苦しみ、発狂したことか。
一番の許せないのは、自分はこんなに苦しみ、ものすごいエネルギーを、ある意味その人のために費やしているのに、相手には、一ッッッ切伝わらないことだ。
こちらばかりが、七転八倒。
決して相手には向かわないエネルギーを、必死こいて丸め、握り潰し、爆発させ、また握り・・・
道化だ。全ての作業が無駄だ。何にもならない。
分かっていても、同じことを繰り返す。
それほどまでに、傷つけられたことを人は許したくないのだ。
ある意味、第3のステップは、「我に返る」なのかもしれない。
つまり。
傷つけられた自分を自覚し、自分の中の怒りを見つけて受け入れる。その怒りは直接人にぶつける以外にも、いろいろな形で発散させ、そして、そこで我に返り、そういった感情を離れて眺めてみる。
それをしたうえで、じゃあ、どうするのか。
それでも相手にぶつけたいのか、笑い話に変えてやるのか、その人の前から消えてみるのか、許さないことを選ぶのか。
本当に、難しい。
私自身、まだまだ許せない病の真っ最中だから。
特に、トラウマになってしまっている場合だとか、人生の根っこに関わる部分に、その許せない人からの言動が憑りついてしまっている場合、さらに難しいと思う。
人なんて、人からのちょっとした言動程度で、簡単に影響されるし、奪われるし、失ってしまうものだ。だからこそ、ちょっとした言動で救われることもある。
私もまだまだ、昔言われた言葉に翻弄されている人生。
でも、今回の本を読んで一番印象的だったのが、私が何年もかかり、人から聞いたアドバイスなども含めて長年向き合ってきたことが、実はフロイトという人が随分と昔に、その心理を説明していたという事実。
あれも、これも、私がぶち当たってきた問題、この人を通してすでに説明がついている。
多くの本にも、そう書いてある。心理学の世界では常識かもしれない。
正解は、もうとっくの昔に、出ていたらしい。
ちょっとやるせない。いじけて、石を蹴りたい気分。
そういう心理学を勉強したうえで、現実として体験する方が効率的で無駄がない。
一方で、自分で実体験や伴う実感を元に経験、乗り越えて見えてきた事柄を、後で本などで学習して答え合わせをする、というのも、それはそれで面白い。
許せないの先に、私はどんな結末を求めているのか、これからも探っていこうと思う。