時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

許せないは、病らしい①(許せないという病)

「許せないという病」(片田珠美/著)という本を。

 

こちら、私がまさに今現在体験している「怒り」「許せない」という感情を、淡々と、第三者の上目線から綴られている図書である。

 

こういう心理的なメカニズムについて、淡々と、さも当たり前、分かり切っていることですが何か?といった目線の書き物というのは、まあ、腹立たしいこともあるが、読んでみると、まあなかなかに、その通りであるナと思いつつ読むことができる参考書のような本であった。

 

わりと分かりやすくまとまっているから、まとまっている本を、さらにまとめてみよう思う。

特に、許せないを、許せるようになるまでの過程についてを。

許せるようになるための過程には、いくつかのステップがある。

 

まず、第一のステップに「傷つき」を認識すること、がある。

自分が相手から受けた仕打ち等で、自分が傷ついたという自覚を持たなければならないそうだ。

これを、何もなかったフリや、傷ついていないフリをしてしまうと、いつまでたっても
相手や出来事そのものを、許すことができない。

 

この段階では、許す許さないは置いておいて、まずは自分の身に起きたことを、自覚するところから始まる。

これが、できない人が多いというのは、自分の身をもって自覚済みである。

 

本当、これがなかなか、できないのだよね・・・

自分が傷ついたということを認めるのって、なんとなく屈辱的だし、情けないし、自分が弱いことを突きつけられているようで、見ていられないんだよね。

だからこそ、シャットアウトし、なかったことにしようとする。

でも、ずっとそうしている限り、許すことも前に進むこともできないんだよ。

 

いつまでも、内側に地雷を抱えているようなもので、いつ、スイッチが入って爆発してしまうか気が気じゃない。

時たま浮上しそうになっているソレを、必死で見張っていないといけないし。

常にソレに、振り回され続ける人生になる。

そして、抱えている以上、いつかは爆発するし。

 

だからこそ、まずは、起きた出来事、傷ついたという感情を自分が見てやることが重要なステップなのだ。

 

で、第二のステップが、「怒り」を受け入れること。

傷ついたことを認めた後は、怒りの感情を自分が抱いているということにも、目を向けてやること。

許せない感情、つまり、相手に対する怒りが芽生えているからこその、「許せない」なのだ。

そこには間違いなく怒りがあるし、その怒りを表現しないでずっと我慢をし続けていると、自分自身が辛くなる一方だ。


でも、怒りの表現って難しく、怒りを表現することでさらなるトラブルや傷つきにもつながるし、それが立場が弱ければなおのこと。

相手が怖かったり、さらなるトラブルを避けるため、怒りを抑えて寛容な態度をとる人もいる(私のことであるが)。

別に、怒りがないのでなく、相手からの反撃が怖いだけなのである。

 

この怒りをうまいこと表現できていないと、大変回りくどい形で復讐に出てしまうこともある。


それこそ、自殺は回りくどい復讐とも言われているように。

自分から直接復讐できないから、自分が死ぬことで、間接的に相手を苦しめたり、陥れたり、罪悪感を抱かせたり。


引きこもりも、その手の復讐の一つだと思っている。

自分がどれほど苦しんでいるかを、自分が不幸で居続けることで、「全てお前のせいだ」と相手に無言で伝えるという、恐ろしい復讐である。

 

とにかく。
こういった、怒りや復讐したい感情を自分が抱いていると、自分が自覚することも重要なことなのである。

 

それこそ、私自身が通ってきた道の過程も、まさにこの通りなのである。

傷ついたことが自覚できずに、ずっと否認していたからこそ、相手に対する怒りの感情が、湧いてこなかった。


ちょっとした苛立ちも、これを相手に伝えることで、さらなる関わりを持ってしまったり、反撃されることを恐れたからこそ、いろんな気持ちに蓋をして、なかったことにしようとした。

 

で、時間がたって、痛い思いを自覚しつつも、自分が相手から言われた言葉、態度に大層傷ついて、悔しい思いをした、屈辱だったことを自覚していく中で、相手に対しての怒りが芽生えた。

それはもう、裁ちハサミで相手の顔の部品を全てそぎ落とし、皮膚を出血しない程度にちょっとずつ薄く切り取って、彫刻刀で掘ったような顔面に仕上げ、最後にトンカチでしこたま殴りたい程度には。

 

~後半へつづく~