時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

忘れてはならぬ

少し前に読んだブログでもあったのだけど。


悪いことも、本当は忘れていいのに、それをいつまでも覚えていて、そこと今の現状を照らし合わせて判断に使っているとのこと。

同じ経験をまた体験して、同じ感情を味わいたくないからこそ、その辛い記憶をあえて覚えていることで、教訓にしていたり、もし同じような前兆があった場合、素早く気付けるように。

 

私は、嫌なこと、辛いこと、厳しい言葉っていうのを、大抵覚えている方だ。

記憶として刻まれやすい。きっと衝撃を大きく感じ取る分、より深く刻み付けられるから、なかなかに忘れられないのだと思う。

 

それもあるし、根に持つ傾向が自分にはあるという自覚もあって、対人で何かあった時、「それを絶対に忘れてなるまい。」という方針を自分は採用している。

もちろん、いいことをしてくれた場合も絶対に忘れない。

 

だからこそ、あらゆる記憶を、忘れないように留めている、というのもある。

 

実は、すごく恨んでいる人がいる。


前の職場でいろいろあった人で、それがきっかけとなり、退職を決意した。

その人の度々の発言は、私にとっては大きな衝撃だった。

 

最初に受けた衝撃があまりにも大きすぎて、その人と話す度、萎縮するようになってしまった。

席が近かったものだから、「あの人、見ているだろうか」「今のミスを見られたかな」「今、席にいるから絶対に失敗したくない」などといった思いを勝手に抱くようになってしまった。これじゃ、まるで主人と奴隷の関係だ。

 

そういうことを、ずっと意識の上に置いたまま仕事をしていたものだから、相当のストレスだったと思う。身体がよく強張るようになり、肩こりが悪化した。

来客とのやりとりに対する外からのストレスと、監視されているような内からのストレスとで、腹痛もよく起こしていたし、なにより顔の肌荒れがひどかった。

 

結局、その人が原因でそこでの仕事は終ってしまったけれど。

 

その後、しばらく、いや5年くらいは引きずってたな。

辞めた直後は、何も感じなかったけれど、それはあくまで気持ちを感じること、振り返ることを避けていただけで、それを勇気出してやり始めた途端、怒りはすごかった。

 

退職後2年くらい経ってから、ようやく怒りが湧いてきた。

(湧いてきたというか、怒りをもって当然、自分の中にある怒りを許すことができたという感じだ)

 

本当に、許せなかった。

悔しくて泣くくらいには、許しがたかったな。

私も死んで、地獄に落としたいくらいに。

 

それから3年経って仕事を再開してからは、怒りのレベルは徐々に収まっていったけれど。

それでも、やはり当時のことを話すとき、自分では認めたくない事実を話すことになるから、相当動揺したな。

 

「ターゲットにされたんだね。」


当時は、そんなこと思いもしなかったけど、話を聞いてくれた人からそう言われて、そうだったのかなって思うと、認めたくないのか、自分が可哀そうに思えたのか、とにかく泣いた。

 

もう当時から、5年は経ってるはずなのに。

まだまだ消化できてないって、実感したものだ。

 

今思うと、怒りという火は、あくまでその本音を隠すための反応だったとも言える。

 

本当は、そんな風に虐げられたという事実に、気付きたくなかっただけで。

何も感じないようにシャットアウトしていた時は、怒りすらなかったけど、見ようと蓋を開けた途端に怒りが見え始め、その激しい怒りのさらに奥に、本音がしまってあった、そんな感じ。

 

随分、まどろっこしいことになっていたけれど。

 

そこからさらに、1年が経った今日。

 

ずっと覚えていたい、忘れてはならない、そんな風に思っている節があるんだろうということを、目が覚めてふと思った。

 

その理由はなんだろう。

嫌なことを覚えておくメリットって、私の場合、何?

 

分からないけど、少しでも自分の中から逃がそうと、もう自分の中に詳細を留めておかなくても大丈夫だと安心させるさせるために、あえて書いてみた。