時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

無職を語る②

前回のつづき

無職を語る① - 引きこもる思考

前回、随分話が飛んだが、そういうマイナスのストーリーを作り出すことを無職時代はよくやっていたわけ。

もっとも、それ以前にもあるにはあったのだ。

その時は、就職に関する時だったような気もするが、なんにせよ、本来やるべきこと、やっているべきことをやっていないと自覚している時に、これは発動する。

まあ、自分の行動に正当性を持たせるためなんだけど。

つまり、私にとって無職とは、本来やるべきことから逃れた状態、やってしかるべきことから逃げている、非常にマイナスのイメージを強く持った状態であると言える。

 

で、自分がそういうマイナスのイメージを持っているからこそ、そんな自分に価値を失くし、自信を喪失させる。

そうなると、人に会うのが恥ずかしくなったり、後ろめたさでどんどん人から遠ざかって行ってしまったり。

こんな思いを1000日間もの間、ひたすら持ち続けていたとしたら、私の自信は地を這っていてもおかしくはない。

その状態で自信を持て、と言われても無理な交渉である。

せめて自信をちょっとは上げろ、くらいの要求にしてほしい。

私は自信というものは、あるかないか、の2択ではなく、もっと段階的なものだと認識しているからだ。

だから、下げれば下がり続けられるし、上げようと思えば上がっていく。

無職というものは、非正規で働いていた社会人としての私の元々低い自信を、さらに一層下げてくれた。

そのためか、やはり私は今も、無職というものに対して、いいイメージは持っていない。

 

無職と聞くと、恥、負い目を持っていた自分の当時の気持ちが湧いてくる。

それはなんとも苦いもので、無職というと、他人的なイメージよりも自分のことが先に浮かんでくる。ちょっと切なくなる。

これは、無職を体験した者の特権というか、体験した人だけが共有できるイメージなんじゃないかと思う。

だからこそ、無職の人を責める気持ちになんてなれないし(当然、無職は責められるようなものではない)、理解しようとさえ思える。それなりの理由があるし、苦しんでいることも、身をもって知っているからだ。

それでも、世間的には、あまりいいイメージでないだろう。

自分もそうだったから、無職の自分に対して恥の感情を持っていた。

無職なんて、言ってみれば自分の状況のことだ。

そこに他人は入ってこないはず。

 

それでも、無職と聞いて、いいイメージが湧かないのは、「共同作業を行わない人」という、集団生活の中にあっての個人の状況だからだろうと推測する。

農業もそうだった。戦争もそうだった。

国、村、そういった集団を賭して何か一つのことに打ち込む、みんなで頑張ろう精神が育ちやすかった日本という国において、みんながやっている作業をやらない人間は、さぞや邪魔で目障りな存在だったんだろうなと思う。

 

今だって、みんなが働いている時間に働きもしないでいる。

そんな人間を疎ましく、同時にズルいと思っても、仕方のないことなのかもしれない。

お金を稼ぐのは、それくらい大変なのだと。少なくとも、自分はこれだけ苦労している。

だから抜け駆け、タダ乗り、サボってる奴を許してはいけない。

みんながみんな、そういう目を持って厳しく監視している。ような気がする。

そしてそのイメージは自分が無職になった時に、よけいに自分を傷つけることになるのだ。私のことだが。

 

さらに、つづく。。