時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

声と歌声

カラオケが楽しい。

 

学生時代、カラオケとは縁がなかったから、実質的にカラオケの楽しさを知ったのは、学校を卒業してからであるが。

昔から歌を歌うのが好きだった。

 

幼少期、自我を持ったその時から引っ込み思案な性格であり、歯並びからくる活舌の悪さ、思考を表現するための話術力のなさ、消え入りそうな声量も相まって、話すことは苦手だった。

特に、教室で挙手して発表する制度が苦痛で、そういった経験から人前で話すのも苦手。

かといって、個人的なおしゃべりも、自分のことを話すのが苦手だったり、複数人での会話だと、みんなの声を遮ってまで話すほどの声量も度胸もなく、やはり会話は苦手。

 

声を出すことに、ここまで悪い条件が揃っているから、声を発することに対しての劣等感は大きい。

 

でも、歌は好きだった。

正直、美しくないのは知ってる。


機会があって、自分の声を録音することがあった。

それもあり、話す時の声を自然と意識するようになったものの。

 

普段話す自分の声は、絞り出すかのような、苦しい声なのだ。

自分で何かをセーブしているような声。

そんな、苦しい声でしか話せないのに対して、一人で歌っている時は、すごく気持ちよく声が出せる。

いい声でもない。しかし、大きく吐いているせいか、吸う息も大きい。身体全身で呼吸をしているような感覚になる。

だから声を出すのが楽しい。

 

遠慮も気遣いも、周りも気にしなくていい。

綺麗でもなければ、聴かせるための声でもなく、思考を表現するためのものでもなく、ただ、自分が楽しむためにある声。

だから歌を歌う声は気持ちがよい。

 

普段の声は、口、頭の方だけで出している声ならば、歌っている声は、身体から声を発している感じ。

空気の量だとか呼吸の浅さだとか。

呼吸というのが、とても大事なものなのは、疑いようのないことだけど。

 

そうだとしたら、自分を押し込めているような、絞り出す声は、身体、呼吸にとっても窮屈で、そうやって生きている人はみんな窮屈な思いで生きている。

そういう意味では、声を出さない、人と話さない生活というのは、心身ともに不健康な生活だと言える。

 

一人暮らしをしていた大学4年の頃、学校も行かなくていいし、バイトも辞めていた。

実質24時間誰とも話さない生活。

そのせいか、わずか30分の面接ですら、後半は喉が枯れてきてしまって、自分を出すどころの話ではなかった。そもそも声が出ないため、コミュニケーションが取れないのである。それを恐れて、ますますセーブした話し方になる。

そりゃ、内定なんてもらえるはずがない。当時から分かってたことだけどね。

でも対策を取らなかったのは、私の視野が狭かったとしか言いようがない。面接の練習くらい、いくらだってできたのであるから。

 

引きこもっていた頃も同様、誰とも一言も言葉を交わさない、発することのない生活を数年続けていたため、たまに知り合いや友人とご飯へ行っても、すぐに喉が枯れてしまっていた。

一応、引きこもりから脱却した今であっても、苦しい声を出すことしかできない。

自分も苦しいと自覚しているのだから、身体にとっても相当なストレスである。

だからこそ、そういったものを取っ払うことのできた気持ちの良い声を出せる「歌」というのは、本来の自分に戻れる瞬間なのである。

 

ま、気持ちのいい声で歌ったからと言って、その声が美しいかどうかは、また別の話。

歌自体も、 決して上手くはないのである。

ついでに言うと、主観では気持ちのいい発声も、その歌声が客観的に心地いいものかどうかは、全くの別の話である。