時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

現実逃避とお金の話

これまで、自分の身に起きている現実、そういうものに対する外からの情報を見るのが無理だった。

 

これは今でも言えることだが、独身女性の生活ドラマだの、派遣だのクビだの、そういう、自分の身に起きている、あるいは状況的に似ている現実、近々起こりそうなリアルな内容のドラマや本、漫画。

 

ああいうのが、苦手。

身につまされるというか、他人事、作り話として見ることができない。

距離を置いて、娯楽として、楽しむことができない。

フィクションとしては近すぎて無理、そういうことが多々あった。

 

だからこそ、何か出来事に直面しており、その渦中にいる時に、そのことに関する情報が集まらない。というより、見ないようにしているから結果的に集まらない。自分から避けている、といった方が正しい。

 

知るのが怖い。

たとえ、他人の話、作り話であったとしても。

それを見聞きして、身体にズンとしたものを感じるのが苦痛。不快。

 

それはつまり、自分の置かれている環境だとか現実を、見たくないってこと。

これを、現実逃避という。

 

無職の時に、就職できなかった人の話なんて聞きたくない。できた人の話も。

引きこもりの時に、引きこもった人の話なんて聞きたくない。抜け出した人の話も。

独身の時に、結婚できなかった人の話なんて聞きたくない。できた人の話も。

 

できるだけ、そういう話を避けてきた。これは立派な現実逃避。

なぜ。

 

見たくないから。

知りたくないから。

 

見たらどうなる?

知ったらどうなる?

 

・・・今の自分に絶望する。

 

今、ようやっと、お金に関することに興味を持っている。

正直、お金のことには、必要以上の興味はなかった。

 

もらった給料すら、手を付けない時期もあった。大学時代のバイト代を、そのまま口座に眠らせたまま気付けば卒業してた。

 

自分の稼ぎに関心がなければ、他人の稼ぎにも関心がなかった。

これは、見たくない現実というよりは、興味関心の薄さの方が原因だと思う。

 

あとは、お金について勉強することへの多少の抵抗感があったくらい。

 

勉強することで詳しくなると、打算的というか計算的というか。

がめつい訳ではないけど、自分が有利になるよう働きかけることへの、否定的な気持ち。

 

自分が有利になるように主張、行動しなければならないような気がして。

やりとりしていて、相手を遮ってまで主張する、そんなことができる性格ではないことは十分に承知しているからこそ。

これは得、あれは損だと知っているから、それを主張したい内心と、それを言うことができなくて情けないと嘆く自分の性格のギャップに、ストレスを抱えそうで。

 

正直、知らなければ流されているだけでいい。

「へー、ふーん、なるほど。」と相槌さえしていれば、勝手に話が進んでくれるから平和的。波風を立てることもない。スムーズに進んでいれば、後で変に引っかかることもなく、自分を責めることなく終われる。

 

おつりが違っているのに気づいても、「おつりが違いますよ」となかなか言えないような、そんな心の葛藤と同じだ。しかし気付いた以上、心は平気ではいられない、そんな心境。

 

「ちょっと、いいですか」案件なのよね。向こうが言ってこないけど、自分が知っていることを伝えるのって。

 

別に、なんとも思わない人ならそれでいいんだろうけど、残念ながら、自分はそうはいかない。相手の言動、自分の言動をいちいち気にしてしまう小心者。

 

あとは、女だから簿記をとりあえずやっておこう、みたいな考え方が嫌だったのもある。嫌いというより抵抗感。みんなと同じことをすることへの、嫌悪だったり抵抗。

 

でも、こうしてお金に関する情報を、知識を少しかじった今となっては、お金って大事だなって分かる。

 

自分の現実も、少しは受け入れられるようになった。

収入が少ないこととか、不安定なこととか。だからこそ、もっと知りたいと思えるようになっている。

自分の現実と、向き合おうとしている。

 

というよりむしろ、見ても大丈夫、知っても平気、そんなゆとり、心の許容ができたような。

 

もちろん、知らないことで舐められる、足元を見られる、騙されることに対する自衛心が芽生えたってのもあるんだけど。

 

今までは、それこそ、「知らない=平和、波風を立てない」という図式があったのだけれど、いつしかそれは「知らない=騙される、舐められる、カモにされる」という図式に変わっていたらしい。

 

世間的には、子どもは「知らない=可愛い、無邪気、素直」だし、逆に大人は「知らない=無知、恥ずかしい、情けない」となっているんだろう。

 

あまりに賢い子どもは、ちょっと疎まれるし。

 

私の中での「知らない」という定義は、子ども用の定義のままだった部分があったらしい。それがいつの間にか、大人用の定義に更新されていたよう。

 

まあ、30代を迎えて、ようやく大人になったというか。

知らないことに対する可愛らしさなんて、そんなものありはしない、幻想だと。

自分の中で納得できたらしい。

 

むしろ、お金のことを考えないからこそ、ちゃんとした大人になれていなかった感じもある。地に足が着いていない、しっかりしていない、なんてことをよく言われたから。

 

向き合うといっても、あくまで今の段階ではお金に関するところだけ。

他の、自分の置かれた状況に対する情報の積極的な取得は、まだ。

それを取得できたとしても、冷静でいられる余裕は、きっとまだない。

 

ほどいていくには、まずは分かりやすく、ほどけやすそうなところから。

からんだ紐と同じだ。