時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

互いの幸せのためな契約

当たり前の、労働の話。

なんかね、職場の人とか叔母とか、いろんな人と話をする機会があって。

そこで思ったことを書く。

 

やりたくない仕事をやらなければいけない。嫌だ、どうしよう。

なら、自分がそこから出て、やりたいと思える仕事、環境を探す。

これ以上の解決策がないということ。

 

そしてそれが、もっとも幸せな解決策だと思う。というか、話をしていて、そんなことを思った。

労働者にとっての幸せは、仕事にやりがいを感じること。どうせ同じ時間を売って、お金をいただくならね。

雇用主にとっての幸せは、その仕事にふさわしい人が、仕事に就いて働いてくれること。同じ給料を払うとしても、雰囲気よく働いてくれる人の方がいいしね。

 

叔母なんかは、いろんな職場を転々とする人生だったから。

良ければ続ける、契約更新。

良くなければ、そのまま去る。

単純な話らしい。

 

でも、私は、それを悪いことのようにとらえてたのね。

辞めるのは裏切り。それくらいのことだと思い込んでた。

だって、仲良くなった人が、仕事を辞めた時、私は悲しかったから。

自分がやめることで、そんな悲しい思いを、他の人にさせてしまう立場になるって思ってたから。

だから、仕事を辞めることこそが、無責任だとか、わがままだとか、そんな風に捉えていた。

そんな最悪の行為ができるわけがない、と。

でも、おかしいのは、私の感覚の方だったらしい。

ちょっとナイーブすぎた。もちろん、辞めるのもエネルギーがいることだし、新たに始めることは、それ以上にエネルギー使う。

それが嫌だからってのもあるけど。

 

なんか、私、仕事というものの考え方、個人の幸せという考え方が、よく分かっていなかったみたい。

ある意味、自分を犠牲にする生き方というか、考え方。

よくなかったね。

 

そうやって考えると、離婚も同じだ。

別にいざこざの末に、互いにどうにもできなくなったから、もう離婚しかないと思い詰めた末の最悪の選択な場合もあれば、互いのこれからの幸せを考えて、さっさと今のお互いが不幸な関係を終わらせて、それぞれの幸せのために行う離婚も、存在するからだ。

そのとおりだと思う。

離婚も、本当はしたくないけれど、それ以外の選択肢がないから、仕方がなくやるものだとばかり、思い込んでいたからだ。

お互いのための離婚なんて、そんなの離婚という行為を綺麗に表現したものだと、これまで思っていたけれど、それこそが思い込みだったようだ。

嫌なのに、ずっと雇用の契約、夫婦の契約を無理やり続けていくより、自分の幸せを考えて、別の道を模索する。

 

嫌なら、別の道を探す。自分の生き方を、選択する。自分が居心地がいいと思えるまで。

終身雇用の長い日本では、あまり受け入れられない考え方だろうけど。

だからある意味、私もそっちに染まってた部分はある。