時にひきこもる思考

考察とnikki 一言で言えば、ただのエッセイ

言えなくて涙

さてさて、今日はちょっと前にあった、ご先祖を救いましょうの会について。

 

前回でも書いたけど、先祖を思うことは、自分を思うことにつながる。

実際は、前回の開催の後、しばらくの間仏壇等に手を合わせる週間ってのがあったのだけれど。

 

今回は、その報告会でした。


自分の中にある壁に気付くことができて、それに対して素直に心を委ねて泣いている人を見るのが、実はすごく好き。

本当は本人も、そこに壁があるだろうことは分かっているんだと思うけど、そこに素直にギブアップ出来ている人を見ると、本当に私は嬉しい。自分の内側を、真剣に真正面から向き合っているのだと、分かるからだ。

今回もね、ずっと「いい子」を演じてきた人がいて。他人もそれが分かるし、本人も分かっている。というか、率先して「いい子」をやっている。

やめた方がいいと言われても、それをやめたら「生きていけない」と、泣く。だからいい子であることを、やめられない。

 

そうしたら、どんどんその人の本音が出てきて、しまいには大泣きして、懸命に話してくれた。

 

” ずっといい子をやってきているのに、どうしてみんな、自分を無視するのか。

  どうして自分の話を聞いてくれないのか ”

 

そうやって泣き崩れているのを見て、これがこの人の「あふれ出る思い、本音」なんだと思った。

前の時は、そんな素振りはなかったし、でも、かわいい印象の素朴なおばちゃんで、すごく好印象だった。

それが、今回、どういう経緯でそんな話になったのか分からないけれど。


自分のいいところが分からない。自信がなさすぎて、自分が全く分からない。

そんな彼女に主催者は、「あなたのいいところを知ってる」と言葉をかけた。別の主催者の人も知っているから、聞いてごらんと。

「私のいいところって何ですか?」たったそれだけの言葉が、その人は言えなかった。

顔を覆って泣きながら、何度も「言えない」と。

 

・・・うん、言えないね。

分かる。

言いたいのに、なぜか言葉が出なくて、出るのは言葉ではなく涙だけ。

むしろ、言葉を出そうとすると嗚咽になって、ますます自分の言葉が出てこない。

言いたいのに、言おうとすると、ダムの放流のように大きな何かが出てきそうで、怖いのだ。

まあ、私の場合、大泣き以上の号号泣ってところか。

そんな凄まじい感情が一気にあふれ出てくるのが恐ろしいと思う。人目もあるし。

 

泣いている彼女を見て、私もなんか、言いたいのに言えなくて泣いた記憶があるなと思っていたら、思い出した。

 

知り合いの人と喫茶店で話していた時だ。

言いたいし、言葉もちゃんとある。次に言いたいことは、文章としてたったの10文字くらいなのに、それを言ってしまうと、全てが崩壊しそうで結局言えなかった。

家に帰ってから、その時言いたかった言葉を思って号泣した。後でメールを送ったけど、文字でなら打てるのに、いざ言葉にしようと思うとできないんだ。

 

その時の自分が、彼女の姿と重なって、一緒に泣いた。

ね、その人の本心よりも本当のところにあることって、本当、言葉にできない。

頑張って言おうとは思うけどね。

本心に近ければ近いほど、言いたいのに、言おうとすると、喉で締められる。内側からブロックされる。

いやあ、こういうことって、本当にあるんだなぁと。自分もそうだったように、そういうことが当たり前にあることに、なんか不思議。

 

特に、いい子として我慢ばかりしてきた子は、いろんな言葉を失っているね。

本音は飲み込むもの、言ってはいけないこと。

そういう観念が、根深いかもしれない。

 

他にもね、婚活だの結婚だの、みんな、手に入れたいものを堂々と言えるのが、本当に羨ましい。

言えないよ。本当に言いたいこと、本気で欲しいものって、どうして言えないんだろう。

どうして、いつも私は本当に欲しいものを、言葉にできないんだろう。

 

ああ、これも、欲しいものを無邪気に主張できなかったせいなんだって、思うよ。